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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

八王子城 東京都八王子市元八王子町 訪問日 1st 2012.11.20、2nd 2015.11.21 3rd 2018.2.21お知らせ

 〜 築城者 北条氏照 築城年 1587年 廃城年 1590年 遺構 石垣、曲輪、御主殿跡 指定文化財 国の史跡 再建造物 石垣・虎口・曳橋 日本100名城(31番目)選定 〜
 北条氏照が1571年頃より築城開始した関東屈指の山城と言われている。氏照が滝山城から移ったのは1584年から1587年の間とする説が有力。1590年6月、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城した当時、城主の氏照以下家臣は小田原城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主膳一庵、中山勘解家範らわずかな将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3,000人が立て籠もった。氏照正室・比佐をはじめとする城内の婦女子は自刃、或いは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。八王子城攻防戦を含む子の小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
 ※ 2012.11 に来た時は御主殿跡も工事中であったが、曳き橋は工事していなかったので御主殿跡エリアに来るのも橋を渡ればよかった。当時行けなかった詰城に挑戦したが、通路がわかりにくかったのと、猿の集団が見え隠れしていて、若干怖かった事もあり、詰城は断念した。…2012.11 訪問時撮影の写真は、比較できるように並べて掲示したのもある。(それらの写真は背景を若干色を変えて配置しました…ここの背景に同じ)…その後2018.2.21に訪問の際は、詰め城の横の大堀切まで行きました。また、八王子城のあちこちに見られる石塁も撮影してきました(別掲 参照)
駐車場入り口(管理棟手前)にあった石碑、「日本百名城・国指定史跡 八王子城跡」…  管理棟の横の登山道を登ると、すぐこの鳥居のところに出る… 
     
 駐車場の横にこの看板が…ここで言うのはイノシシ・熊だろうが、訪問時は、実際に猿の集団に遭遇した
 
旧道を通らず、左の新道、金子郭方向へ行く…   登り始めると、このような標示が…この季節はスズメバチは活動していないと思うが…  アシダ郭を見て…
     
このような階段上のだらだら続く道を進む…ガイダンス施設で入手の鳥瞰図では「馬蹄段」とある 金子丸(金子氏が守っていた曲輪)の碑    八王子市教育委員会が
設置の金子丸の説明版
     
金子郭は尾根上に広がる…  金子丸を過ぎると「六合目」の碑… 柵門跡に来た…説明板 
     
 柵門跡の広場…柵門台  途中の展望場所より八王子市街方向を見る…
      
「高丸」との標示柱がある広場…
 
九合目の標示柱…  本丸周辺の物見台より東京・横浜方面を見る…遠くにスカイツリーや横浜みなとみらいなどが見える
     
 八王子神社手前にあった案内板…
 
 上の説明板より本丸周辺の郭等の配置図…   小宮曲輪への道標…
     
ここが小宮曲輪か…
 
 八王子神社(右の写真)と神社前広場に通じる階段(左の写真)…  八王子神社の隣に建つ「横地社」…本丸を守っていた横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)を祀る。
     
 本丸跡の標示…八王子の名前の由来である八人の王子の説明も  本丸跡全景…それほど広くない  本丸跡に建つ小さな祠…
     
 2012年11月訪問時の写真…祠に扉がついている!?  八王子城本丸址の石碑と本丸跡の標示柱(左側)… 
     
 本丸跡全景…祠を横から見る
 
 本丸から松木曲輪に来た。ここの物見台的な場所にあった八王子城の古絵図… 松木曲輪への道標…
     
松木曲輪の説明板…中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)が守っていたと言われている。
 
 松木曲輪の北側(後ろ側)…向こうに見えるのはトイレ。ここに詰城への道標があった  坎井(かんせい)の井戸…今でもポンプで汲んで水がでます。飲めるみたいです。 坎井(かんせい)の井戸を過ぎて、詰城を探してこのような道を歩く…
       
詰城へ行くべくこのような山道を下ると、左の写真の案内標示が見えて来た。高尾・陣場縦走路の方向でいいらしいが、猿の集団が現れたので引返した。…襲われたわけではないが若干怖かった。また、機会を見て再挑戦したい。
     
 登ってきた道を戻って、再度アシダ曲輪に出た。 どんどん降りていくと、ここに出て広い車道に合流した…  御主殿曲輪には曳き橋が工事中で通れないが、とにかく大手門跡を通り、古道から、曳き橋の方へ行く…
     
 大手門跡の説明…  大手門跡のところ… 
   
大手門のところの空堀…
空堀を跨ぐ木橋を渡る… 御主殿にいたる古道(大手道)であったことが明らかになった等の説明板…右の写真に古道の説明板が
     
      2015.11 当時の曳き橋部分…工事中であり迂回して御主殿跡の方へ行った 2015.11 当時、曳き橋工事中…
     
 橋台石垣と曳橋の説明板…
 
 豊臣側の攻撃の際、北条氏照正室を初めとする城内の婦女子は自刃等にて、滝は3日3晩血に染まったと伝えられている…石碑と説明板があった(左側の写真) 
   
 御主殿の滝の説明板…
 
この辺は城主北条氏照の居館があったところで御主殿跡と呼ばれている。
塀跡之説明(真ん中の写真)、敷石通路の説明(右端の写真)など。
   
 道路城遺構とその説明(左)… 舶載磁器集中出土域…
     
会所の復元基礎…主殿で儀式を行った後に宴会などを行った場所では?との説明がある   舶載磁器集中出土域の説明板…
     
 会所の説明板…
 
 庭園の説明板… 庭園遺構の案内図…
 
 礎石建物跡・会所…平成4、5、平成25年度に実施した発掘調査で「主殿」「会所」と推定される大型の礎石建物跡や、池を中心とする庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。これらの建物跡と等の復元整備事業が行われた等(説明は右の写真を参照)。 
     
 掘立建物跡の説明…
 
 掘立建物跡…  道路状遺構の説明板とその復元遺構(右の写真)…
     
 御主殿跡の東側にある虎口…推定復元冠木門  櫓門跡の説明…
     
 櫓門跡…礎石の一つが見える
 
これは2011.11当時の写真…   この写真は2015.11 時点のもの。櫓門跡の階段・石垣…
     
右の写真とほぼ同じ場所…
 
築城当時の石垣 400年間もくずれず残っていたので、そのままの状態で
保存している。戦国時代の石積み様式を知る貴重な遺構…2011.11当時撮影の写真(現在では、この部分は、曳き橋工事の関係で立ち入り出来ない)
御主殿虎口の説明…
   
 
工事中の曳き橋の端の部分をフェンス越しに見る…
 
アクセス:JR中央線高尾駅から西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「恩型車庫」「陣馬高原下」などで、バス停「霊園前・八王子城跡」下車 徒歩約15分。なお、土曜・日曜日には「八王子城跡」行きのバスが運行されている。便数は少ないけど。
 
 ※ You Tubeに「八王子城ー2015秋 」を投稿しています。You Tube のページへこちらからジャンプしてご覧ください!
              

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