会津若松ー鶴ヶ城外の史跡を巡って…甲賀町口門跡~天寧寺町土塁など 2014.5.14 訪問 会津若松城に戻るお知らせ |
|||
~ 甲賀口門跡 蒲生氏郷は城下町に16の郭門を設け、武士の住む郭内と町人の住む郭外に分けた。甲賀町口の石垣は唯一残る郭門の一部。国指定史跡。天寧寺町土塁 郭内と郭外を隔てる遺構で、蒲生時代は天寧寺町口がお城に入る正門になっていました。国指定史跡。ほかに、蒲生氏郷の墓、西郷頼母邸跡、藩校日新館天文台跡 等を掲載しました。(説明文は会津若松観光物産協会発行のパンフ「あいばせ」より抜粋) ~ | |||
鶴ヶ城外の史跡を訪ねた。地図の北方にあたる会津若松駅から、中央二丁目の蒲生忠郷(たださと) の墓 → 神明通り~栄町の甲賀口門跡 → 天寧寺町土塁 → 西郷頼母邸跡 → 日新館天文台跡 → 蒲生氏郷の墓を廻った。 |
|||
五輪塔 「忠郷公百回忌を供養して高巌寺境内南側に建てられた ものをこの地に移し替えた」との説明(右の説明板参照) |
馬場通りの突当りにある市役所庁舎 | ||
史跡 若松城跡(甲賀町口門跡)の説明板 | この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍の屋敷とし、外側を町民の住居としていた。この甲賀口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。(左の説明板より抜粋) | ||
「鶴ヶ城甲賀口郭門跡」と標示の柱 | |||
上野標示中のところから郭内側を見る | 道路から右回りで回ってみる | 道路の反対側…立ち入り禁止の標示 | |
道路から郭内、若松城方向を見る | 天寧寺土塁の方へ東の方へ歩く…当時の町割りの名残りか敵の攻撃に備えたような、鈎状の道がそこここにあった | ||
土塁と看板が見えてきた…外曲輪と内郭を区画した土塁であり、これほどの土塁が市内に現存する のは極めて貴重と思われる(右端の写真の説明より引用) |
|||
土塁に沿って千石通りまで歩いて出て、県立病院~県立博物館方面に戻り、次の訪問先、西郷邸跡へ向かう | |||
福島県立博物館 県内の文化遺産を 一堂に集めている |
土塁に沿って、北方向へ回って、南側へ出る。これだけの敷地がフェンスで囲ってあった。…ひょっとしたら整備の上更なる観光遺跡に? | ||
国家老萱野権兵衛及びその次男郡長正(こおりながまさ)両氏の説明 ―会津の先人たちー | |||
戊辰戦争で西軍が城下町に乱入したとき、家老西郷頼母の家族ら21人は辞世の句を残して自決した。石碑及び顕彰碑が建つ… | |||
西郷邸跡と道路を挟み反対画にある、旧会津藩家老 内藤介右衛門の屋敷跡で、庭はいわゆる江戸時代遠州流の流れをくんだ由緒あるものらしい | |||
会津の藩校日新館天文方の天文観測の場であった。 | 天文台は常に星の観測をするところであった、観台は当時の規模の半分になったが、藩校日新館の施設の中では唯一保存されているもの。 | ||
頂上部の拡大 建設者として、遠藤義ノ介及び石工の名前が刻まれている。 | |||
興徳寺…蒲生氏郷の墓がある | 蒲生氏郷氏墳墓ノ地、の標識 | 松平容保公歌碑 | |
氏郷の墓は五輪塔として興徳寺境内に辞世の歌碑と共に建っている。 | 蒲生氏郷氏墓の説明 | ||
氏郷公辞世の歌碑 | |||
蒲生氏郷の墓の説明 | 五輪塔の説明… | 上の写真の、辞世の歌碑のズーム写真 | |
※ 「鶴ヶ城ー城外史跡を訪ねて」をYouTubeにアップしました。こちらからご覧ください! |