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竹田城 兵庫県朝来市和田山町竹田 2012.11.28 訪問お知らせ

 〜 築城者 山名宋全(伝承) 主な改修者 羽柴秀長、赤松広秀 主な城主 太田垣氏、羽柴秀長、赤松広秀
 廃城年 1600年 
遺構 石垣、堀、井戸 指定文化財 国の史跡 日本100名城(56番) 〜
1441年、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていた。竹田城はこの時、赤松氏に対する山名氏方の最前線基地の一つとして築城された。以後、太田垣氏7代に亘り城主となるが、1577年羽柴秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代となった。これ以降、竹田城は織豊方の拠点城郭として機能した。竹田城は播磨・丹波・但馬の交通上の要地に築城された。築城当時の姿は不明な点が多いが、石垣遺構周辺に存在する曲輪から判断すると、現在の本丸・天守台の存在する山頂部から三方に延びる尾根上に曲輪を連続的に配置し、堀切や堅堀で防御性を高めていたと思われる。1580年秀吉が但馬を平定後、桑山修理大夫重治が竹田城主となる。重治、和歌山城主として移封される。赤松広秀が竹田城主となる。広秀は伏見城普請に参加する。この時22,000石。関ヶ原の役で広秀は西軍に属し丹後田辺城を攻める。西軍敗退後、鳥取城攻めに加わるが、大火の責任を問われ鳥取・真教寺で自刃する。竹田城廃城となる。昭和46〜55石垣復元工事。平成18年日本100名城に指定。(朝来市教育委員会パンフレット「竹田城跡」より抜粋・編集)
立雲峡案内図(竹田城のある山の反対側で、この山よりの、雲海に浮かぶ竹田城の写真は有名  立雲峡の見晴台を目指して登る 
      
 立雲峡の見晴台より撮影 
 
立雲峡から望遠で…    史跡 竹田城址の石碑
ここが見附になっており
ここから大手門方向へ向かう
 
     
朝来市教育委員会が設置の案内板で、「遺構について」、「城主について」の説明版 
     
三の丸の櫓跡     
     
   
  大手門方向へ  北千畳から北東を臨む 
     
     
  北千畳の北端  三の丸から二の丸への途中にある「弐の門」 
     
本丸   
      
 
 
  天守から南二の丸方面を臨む  
      
 本丸から南二の丸方面への階段
 
     
     
     
     
     
  天守台(左)より朝日を見る  南千畳 
     
アクセス:JR西日本播但線竹田駅から徒歩約50分
                    
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