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横須賀城 静岡県掛川市山崎 2017.11.1 訪問 |
~ 築城主:大須賀康高 築城年:天正6年~8年(1578~1580年) 主な城主:大須賀康高、渡瀬氏、有馬氏、大須賀忠政、能美松平氏 廃城年:明治2年(1869年) 主な遺構:曲輪、土塁、横堀、石垣、枡形虎口 ~ |
- 横須賀城の歴史:戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていました。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点として横須賀城を築かせました。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城となるまで288年20代の城主を数えました。
- 横須賀城の特徴:横須賀城は、小笠山から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれ東西に長い形をしています。築城当時、山城として築かれた本丸・松尾山に近世以降の拡張工事によって、二の丸郭、三の丸郭の平城部分がが付け加わり、平城と山城の特徴を兼ね備えていることから、平山城といわれています。また、普通一か所しかない大手が、東西二か所にあることや、玉石積みの石垣も特徴の一つです。
- 明治維新の廃城と国史跡指定:明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達(いえさと)の領地となって静岡藩に含まれました。明治2年8月には横須賀城も廃城となりました。明治6年には城内の土地、建物、石垣、立ち木まで民間に払い下げられて、街並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失いました。そして昭和46年に本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和56年5月8日付で国史跡に指定されました。以後、土地公有化と遺構復元整備が進められています。
- 現地、横須賀城本丸に掛川市教育委員会が設置の案内板より抜粋・引用
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横須賀城へは、東海道線袋井駅南口からのバスが便利… |
「七軒町」バス停を下りて、北方向を見ると…「横須賀城西大手門跡」の標示が。そこから少し右(東)に行くと、「西櫓跡」の標示柱(右の写真)が…この辺は旧城域だが宅地化で遺構は可なり消滅しているようだ… |
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再び、県道沿いのところに戻ると、「横須賀城外堀跡」の標示柱が…右の写真で、詳しい説明部分を拡大表示 |
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外堀跡部分の全景を見る… |
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史跡指定区分図…ここで、現在地とあるところが旧外堀跡。オレンジ色の部分が史跡指定地で現状変更ができない部分 |
北方向の横須賀城公園方向への通路を歩く… |
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「二の丸御殿池跡南端部出土地点」の標示柱…この辺も改変されている |
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先ずは天守台・北の丸方向へ… |
公園に入り駐車場に設置の案内板より「縄張図」を拝借…赤く見える標示が現在地 |
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駐車場から階段を上がり西の丸方向へ… |
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右下の写真から一段上の西の丸への階段を上がる…階段上の植栽は往時の塀を、刈り込んだ生垣で表現しているとか。 |
駐車場から西の丸台地へ上がる斜面の石段の説明…発掘調査結果に基づき遺構を復元している由。 |
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一段上がった場所…公園としてきれいに整備されている |
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階段を上がりきると眼前に西の丸広場が… |
西の丸の南端から下の段に降りると、見事な玉石積みの石垣が… |
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西の丸全景…ここにも塀を模した植栽が見られますね |
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本丸南下門跡推定値地…右上の写真の階段(本丸虎口?)を下りて、本丸下のレベルに降りてきた。ここは、本丸南下門跡推定地とされており、平成3年、4年に実施された発掘調査に基づき復元整備が行われた、との説明が右下の写真で |
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復元した石垣の石は大井川から採取した石を使っている等々の説明が… |
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右上の写真の説明の「石垣の東端からは排水溝と考えられる遺構が検出され、石垣の暗渠口として復元したが、現在は危険防止のため穴の口を扁平な石で閉じています」の部分と思われる… |
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二ノ丸に到着… |
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最上階部分、本丸の天守台跡… |
上の写真のところから階段を上がり、天守台方向へ行く… |
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上の写真の通路から右側の三の丸との間の所を見下ろす…ゲートボールを楽しんでいた人たちが見えた |
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天守台遺構についての説明… |
左の写真の説明によると、3層4階の天守だったとか。礎石と礎石を抜き取った穴(27箇所)が検出されている。礎石配置は下の写真で分かる… |
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天守台の遺構の説明… |
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「本丸跡土坑群」の標示板…右の写真? |
「三日月池北側中段の遺構」の説明版… |
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「当時の堀で現在残っているのはこの堀跡だけです」との説明が標示柱の側面に書かれている… |
本丸エリアから南方に降りてきて、三日月池方向へ行く… |
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フェンス越しに三日月池を見る…丸との境部分に「石積み」が見える…いつの時代のものか不明 |
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三日月池のところから東に少し行くと、この「横須賀城東大手門跡」の標示柱があった…周囲は宅地化されている |
東大手門跡の柱のところから少し東に行ったところに、左下の写真の「横須賀城三の丸跡」の説明板が… |
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三の丸跡の説明版…廃城後も江戸時代の地形を保っていたのが、昭和30年代に東外堀が石垣をそのままにして埋め立てられたとか。 |
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三の丸跡の案内板のところから、最初に入ってきた駐車場のところに戻る。駐車場の案内板のすぐ上(北)に「米倉跡」の標示柱を見る… |
米倉跡のところから西方向に行く途中に、梅林のような場所(左の写真)から旧「北外堀」と思われるところを見て…撰要寺方向へ行く |
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撰要寺山門…横須賀城不開門が移築されている。 |
不開門・撰要寺への道標… |
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撰要寺の標示石… |
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市指定建造物「撰要寺 不開門」との標示柱 |
「遠州横須賀松尾城主 大須賀家の墓」との標示柱… |
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撰要寺の説明版…大須賀康高は高天神城攻めのため撰要寺に布陣した等の説明が。 |
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撰要寺から、最初のバス通りに戻る途中にこの標示柱が… |
撰要寺を出て、振り返り見る… |
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左の写真のあった場所を離れて見る… |
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アクセス:東海道線「袋井」駅下車、秋葉バスサービス「横須賀車庫前」行きで「七軒町」下車、徒歩5分
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