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山上城 群馬県桐生市新里町山上 2017.9.8 訪問お知らせ
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~ 築城主:山上五郎高綱 築城年:12世紀後半(新里村詩では築城を1183年としている) 主な城主:山上氏一族 廃城年:天正18年(1590年)? 主な遺構:郭、土塁、空堀 群馬県指定史跡 現状 山上城址公園~ |
- 南北650m、東西220mの規模を持つ並郭構造の丘城である。北から、北郭・笹郭・本丸・二の丸・三の丸と並び、二つの堀切を隔て、高さ約5mの物見台をもつ南郭へ続き(…判読不能)…腰郭が渦状にめぐる。更に東に蕨沢川(わらびさわがわ)、西に山田川が流れ、堀の役目を果たし、非常に巧妙な手法によって築城され、現在も当時の形状がよく保存されている。藤原秀郷の流れをくむ足利成行の孫、足利高綱が山上の姓を名乗り居城とした。高綱の子、太郎高光は頼朝に仕え、上杉氏が関東管領の頃は由良氏、園田氏、桐生氏などと共に東上州の四家として重要な役割を果たしていた。戦国時代末期、天正18年(1590)年頃に廃城となった。今でも、元町・鍛冶屋などの地名が城下町の名残として残っている。(群馬県教育委員会・新里村教育委員会が現地に設置の案内板 「県指定史跡
山上城跡」より)
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常広寺の西の通路から、西方向へ進み、先ずは北郭・笹郭の空堀群を見る…突き当り部分には土塁(右の写真)ガ。 |
左の写真のすぐ右には作平地が…笹郭と思われる |
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笹郭と北郭の間の通路の前にあった説明版より縄張図を拝借…笹郭から北郭~本丸~二の丸~三の丸~南郭の順で周った |
突き当り部分から、北方向に堀底道を進む…雑草が茂っているがそれほど歩きにくくはない |
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北端に近づいてきて、下の写真に続く… |
上の写真のところから、どんどん進む…すぐ下の写真に続く。 |
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上の写真の続きだが、この辺では堀も緩やかな傾斜・深さ… |
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上の写真のところから外周部分で左に折れて、外側の空堀を戻って最初に入ってきたところへ行く… |
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外側の堀を南に進む…二重掘り部分か |
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右の写真の若干上がった台地上のところに出た…そこはすでに本丸か。群馬県指定史跡 山上城跡の石柱があった。 |
左上のところから少し行くと隣の本丸に近づいてきた… |
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左の写真の場所から南東方向を見る…木々が育っているがしっかりした郭ですね。 |
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本丸から、東方向を見下ろす…一段下がった腰郭が見える。 |
本丸跡広場の標示柱…樹木が大きいが結構広い作平地だ |
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本丸南東側の腰郭的なところ… |
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東側に腰郭・帯郭が広がる… |
二の丸の西側の空堀(浅い)か… |
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ここの空堀は上の写真よりはっきり見える…縄張図で見るように一部しか残っていないようだ。 |
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右の写真の、土塁的な場所の左(南)側の堀跡状のところ… |
二の丸の標示柱…ここは二の丸の南端部分か |
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上の写真の続き… |
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左上の写真のところをアップで撮影…右が二の丸だろう |
三の丸の上段部分か… |
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ここ(三の丸上段)は公園として整備しており芝生広場になっている… |
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井戸…山上城第1号井戸 規模も大きく重要な役割を果たし可能性がある(下の写真の説明参照) |
三の丸の南東側で標示柱がある部分… |
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新里村教育委員会が設置の説明版…人為的に埋められていると推定 |
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物見台(模擬)…東側の公園入口にあった模擬櫓。縄張図からは物見台と表記あり物見櫓だったのか?然し、これは現実的な建物ではないだろう |
三の丸の南側東端の部分に、区画された部分があった…説明版もない。建物跡? |
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三の丸下段の、芝生広場の入り口にあたる部分にある橋…ここを渡った先に左の写真の模擬櫓が |
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(おまけ)山上城跡のすぐ近くにある「山上の多重塔」(国指定重要文化財)。平安時代初期の、延暦20年(801)に僧の道林によって建立された供養塔…左下の写真で詳しい説明が |
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「塔婆石像三重塔」の説明版… |
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アクセス:上毛電鉄新里駅から徒歩20分
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