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遠金城 千葉県東金市台方 2015.10.6 訪問 |
〜 築城者 千葉氏 築城年 15世紀中ごろ? 主な城主 酒井氏 廃城年 1590年 遺構 土塁、堀、指定文化財 なし 〜 |
東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘陵の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)本城の所見は、「鎌倉大草子」によると、享徳の乱(1454〜82)の初期、美濃より下向した東常縁(とうのつねより)の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末〜16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の擂鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二部を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。遺構もよく残り、本城に関する一級資料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。(現地案内板、「東金市教育委員会指定第50号
平成7年6月7日指定」より)
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JR東金線「東金」駅…ここから徒歩約15分で東金城址へ |
東金駅から西方向の八鶴湖・東金高校を目指して歩く… |
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八鶴湖入口への道標… |
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八鶴湖越しに東金高校(東金城址)方向を見る… |
八鶴湖…慶長18年(1613年)家康公が東金御殿造営時に「御殿前池」として弁天島等を設け整備したとか |
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八鶴湖畔出くつろぐ鴨たち?… |
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807年最長の創建と言われている。永正6年入城の酒井定隆氏の旦那寺。天正19年には家康公より寺領30石を寄せられている(説明板より)… |
東金城址の説明板…本漸寺の脇にあった。後ろに見えるのは土塁跡か… |
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東金御殿 家康による鷹狩の命を受けた佐倉城主土井利勝が、1613〜翌年にかけて作らせたとか… |
東金高校正門… |
弁天島…八鶴湖にせり出ている。弁財天が祀られている。 |
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本漸寺横の城址説明板の横の道に入ると、すぐ右側に城址碑が… |
御殿山入口…16:00閉門。私有地だが好意で公開してくれているとか |
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城址碑を過ぎて振り返り見る…右が東金高校 |
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史跡 御殿山の標示石柱… |
このような道を少し歩くと… |
防空壕跡がいくつか右側に… |
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四郭と三郭の間の堀切… |
この階段を上がると四郭… |
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四郭の御殿山神社奥の院の碑… |
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四郭と三郭の間の堀切…上の写真の反対側部分で、この堀切の端の部分が右の写真、絶壁になっている。 |
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上の写真の続きの部分…コンクリート柱と鉄条網の跡が見える。以前は一部入れないようにしていたのか? |
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四郭周囲の堀気の痕跡…それほど深くはない |
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四郭は狭いが見晴らしはいい!物見台的な目的もあったのか? |
ちょっとした削平地のようだ。三郭の痕跡?… |
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このような藪状の道を進む… |
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二郭に来たらしい…太平洋戦争時に作られたトーチカ残っていた。左上の写真が入り口部分! |
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トーチカのすぐそばに貯水池跡のようなものが…トーチカの兵士用だった? |
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右の写真の状態から、この先の探索は断念して戻る途中で改めて三郭に… |
二郭から更に東の尾根方向に行こうとしたが行く手を阻む藪・雑草が… |
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三郭の一部か… |
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四郭を経て麓の本漸寺を目指す… |
麓の本漸寺境内の土塁の残存的な場所… |
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「不戦古戦場」及び「大東亜戦争蛸壺」との標示柱… |
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本漸寺…ここには、城主酒井氏の供養塔があるとのこと。 |
家康公お手植えの蜜柑…駿府より蜜柑を取り寄せ自ら植えたとか。その説明板。 |
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アクセス:JR東金線「東金」駅から徒歩約15分
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※ 「上総 東金城 千葉県東金市」をユーチューブに投稿しました。こちらからジャンプしてご覧下さい! |