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寺崎城  千葉県佐倉市寺崎  2016.2.13 訪問お知らせ

 ~ 築城者 千葉胤将? 築城年 戦国時代 主な城主 ? 廃城年 ? 遺構 土塁? 現状 密蔵院光明寺 ~
 「千葉家実録」「千葉大系図」「総葉街録」「千葉伝孝記」などの資料を総合し、寺崎城を考察すれば、千葉氏第14代満胤の嫡男兼胤が第15代を継ぎ、その弟胤直が第16代を継いだ。その頃千葉氏に内紛が起こり、胤直は弟の馬加康胤及び同族胤房に攻められ、千葉城をすてて志摩城に逃れたが、二男胤宣は多胡城外で自刃し、胤直もまた自刃し、胤直の嫡子胤将は諸々に逃れ、寺崎に城を築いて居城した。字新小路の神明社は胤将は千葉城の神明社を勧諸したものである。胤将の子則胤のとき、馬加康胤は千葉氏宗家の乗っ取りを企て寺崎城を攻撃し、則胤は武蔵国に逃れた。それより、康胤は千葉氏の正統を名乗のり本佐倉に城を築き、千葉氏の本城とし、嫡子胤持を寺崎城に置いたのち胤持も本佐倉城に移り、寺崎城は廃城となった。今となっては、寺崎城の縄張りを知る手がかりはなにもないが、現在地名などから推察すると、縄張りの核を字新小路とした平山城で、平坦部の先端基地として太田の砦を用い、上城堀・城堀の二つの隍(ほり)により敵の襲撃を阻止し、字御門前から郭内として屋形を薬師堂付近に置き、字新小路に土塁を築き、さらに南六所神社から北六所神社の線を境として油小路・相馬小路・南小路・猫坂小路・下小路・北込小路に各曲線を設け屋形を警備した。そして屋形の守護神として表鬼門(北東)に神明社、裏鬼門(南西)に浅間社をそれぞれ勧諸したものである。寺崎城の特徴は、郎党が台上に住んでいたと思われる。従って田圃での農作業は台上からおりなければならず、敵の襲撃を容易にさせる危険がある。その危険を防ぐために屋形への道は迷路のように作られ、搦手は字枡ノ内から弁天前に降りたと思われる。枡ノ内とは、城門の中に四角に作られた空き地の枡形からとった地名である。(城址にあった石碑の刻まれた説明文ー「表示責任者 実川侑靖」より)
JR佐倉駅…ここから徒歩、約20分で寺崎城跡のある密蔵院へ…  密蔵院への参道・階段…ここを上がって左に物見台と城跡の説明碑が
        
 密蔵院薬師堂への階段横に残る土塁?
 
墓地内にも残る土塁?…寺崎城の遺構かどうかは不明  密蔵院薬師堂の手前には、神社があったが由緒などの説明はないが、それなりの歴史を感じる雰囲気でした…
     
 「佐倉市指定文化財 密蔵院薬師堂」(中央の写真)とその説明板(左の写真)。右端の写真は密蔵院光明寺の「殿堂建立記念碑」…
 薬師堂の横にあった力石(ちからいし)。案内板によると、米俵を運ぶ力をつけるための鍛錬用として、薬師堂の境内に置かれたとのこと。 薬師堂の横の広場から物見台的な場所を見る…櫓台跡かどうかも不明だが、眺望は素晴らしい…
     
 咲きはじめの梅の花がちらほらと…
 
矢倉台跡(?)に上がって南方、総武本線側を見る。…  寺崎城の説明板…冒頭に記した説明文はこれより引用した。
   
 南側の田園地帯を見下ろす…成田エクスプレスが通過中
 
物見台的な場所の端から下を見下ろす… 名勝・佐倉八景の内「寺崎落雁」の碑とその説明板(右の写真)…
アクセス:京成電車:JR佐倉駅(総武本線)下車、徒歩約20分 
※「寺崎城ー千葉県佐倉市」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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