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田中城 静岡県藤枝市田中 2017.2.26 訪問お知らせ
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~ 築城主:武田信玄 築城年:元亀元年(1570) 主な城主:武田氏、酒井忠利、松平氏、本多氏 廃城年:明治維新(1868) 主な遺構:土塁、水堀、櫓、城門 藤枝市指定史跡 ~ |
- 田中城の歴史 田中城は、今川氏の時代には徳一式(とくいっしき)城と呼ばれ、土豪・一式左衛門尉信茂の居館から発展したものと考えられています。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元がが戦死し、今川氏の基盤が崩れ始めた機に乗じ、甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始しました。元亀元年(1570)、花沢城(焼津市)の落城を受けて、当時守将となっていた長谷川次郎衛門正長は徳一式城を明け渡し、遠江に退去しました。徳一式城を手に入れた信玄は、馬場信春に命じて三日月堀(馬出曲輪)を作らせ、城の守りを堅固にしました。徳一式城は、田中城と呼ばれるようになり、遠江に対する戦略的な拠点として位置づけられました。信玄の死後武田勝頼は、天正3年(1575)の長篠の合戦で織田・徳川の連合軍に大敗し、その勢力図は一変しました。徳川家康は遠江・駿河にある武田方の諸城を攻略しにかかり田中城もまた徳川軍の度重なる攻撃を受けました。天正10年(1582)2月には、織田・徳川・北条氏が連携して武田領国への進撃を開始し、3月1日、ついに田中城は開城しました。江戸時代には田中藩が置かれ、駿府の西の守りとしての重要さから、譜代大名が田中城に入り始めました。大政奉還により、志太地域は静岡藩の領地となったため、田中藩は安房国長尾へ転封となり、藩主本多家と家臣一同は新しい領地へ移っていきました。ここで長く続いた田中城はその役割を終えることになりました。(田中城下屋敷にて入手のパンフ、「田中城跡
散策ガイド」(藤枝市郷土博物館・文学館 史跡田中城下屋敷が監修?)より「田中城の歴史」部分より抜粋させていただきました。)
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田中城には、武田氏の城の特徴である丸馬出(三日月堀)が6か所も設けられていた。下の写真は本丸跡である西増津小学校のすぐ隣に標示柱を建て(右の写真)、説明板も設置されている。 |
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この場所の説明板に記載の田中城復原図面を拝借…四重の堀を同心円状に巡らせた円郭式の縄張りである。 |
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田中城本丸櫓…本丸にあった御亭(おちん)よ呼ばれる二階建ての建物で現在は他のゆかりの建物と合わせて下屋敷に移築保存されている。右の写真は櫓の上層階から見たこの下屋敷の冠木門と受付の建物 |
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左が、「田中藩牓示(ぼうじ)石」(藩の領地の境界を示す標識)。右は顕彰碑(藩牓示石の文字を記した田中藩士薮崎彦八郎東岳氏顕彰して明治34年に建立された。 |
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本丸櫓の2階内部… |
本丸櫓2階から北方向を見る… |
長楽寺村郷蔵(ごうぐら)…年貢米や飢饉に備えて非常米を保存するための蔵。江戸時代に村ごとに置かれた |
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下屋敷内部に復元された土塁跡… |
大溝跡… |
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庭園内の水堀・橋… |
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こちらも土塁跡… |
茶室(右側)と仲間部屋(左)… |
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桜がちらほらと…ソメイヨシノ? |
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三の丸土塁跡…三の丸を取り囲むように築かれたもの。記録によれば、総延長約980mあったとのこと。 |
三の堀・土塁跡への道標… |
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三の堀・土塁跡の標示柱…左奥にその土塁が見える |
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西益津小学校の校内に設営された模型の櫓と曲輪(周囲の堀)…道路からフェンス越しに撮影 |
西益増津小学校正門横の標示柱…この右側で校内を撮影したのが左の写真 |
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こちらは西益津中学校…左に見えるのは小学校。この辺一帯が主郭部。 |
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藤枝市指定史跡「二の堀」…二の堀は本丸から二番目の堀で幅12.7~21.8mとのこと(標示柱と説明板は右の写真) |
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説明板… |
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市内各地に、標示柱・板だけの案内標示があった…ここに、そのうちの一部を掲載。左端の写真は「三日月掘跡」真ん中の写真は「二の土塁跡」、そして右端が家老重富代助屋敷跡」… |
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アクセス:東海道線 「西焼津」駅下車徒歩約30分
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