高遠城 長野県伊那市高遠町 2013.4.11 訪問お知らせ |
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~ 築城者 不明 築城年 不明 主な城主 高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、鳥居氏、内藤氏 廃城年 1872年(明治5年) 遺構 石垣、土塁、空堀、門 日本100名城(30番)~ | ||
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらに、その外側に三の丸を廻らした城郭三段の構えを持っていた。1582年、城主の仁科五郎森信が、織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替り、1691年からは内藤氏が廃藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には天守閣はなく平屋造りの御殿や櫓、土蔵などがあった。本丸御殿は政庁であると共に藩主住居も兼ねていたが、廃城時、場内の建物は取り壊され、今では明治8年ごろに移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注ぐ。(現地案内版より抜粋・編集) | ||
高遠城址公園への入口 (あちこちに入口はあるが) |
川沿いに城址公園に向かうが 上から見た三峰川の河原も駐車 場として利用、すごく混んでた |
歴史博物館入口 |
博物館隣の「絵島囲み屋敷」… 絵島事件でこの地に幽閉された この屋敷は残存する古図をもとに S43復元された |
南曲輪より入城、ところ どころに古い石垣が残る |
白兔橋(南曲輪へ通じる)城より撮影結構深い空堀でした |
南曲輪の桜、桜 | 本丸方面への案内板が見える | 南曲輪から本丸跡への 土橋上から撮影の空堀 |
土橋上から撮影の空堀 | 本丸から伊奈市街を見る | |
本丸跡 | ||
本丸跡で多くの人が花見… | 太鼓櫓 時刻が来ると時の数だけ太鼓を打って知らせていた。明治10年現在地に移し朝6時から祐6時まで偶数時に打つことが昭和18年まで続いた。現在は高遠町歴史博物館に展示されている。 | 本丸広場の桜、小ぶりで赤みが強い固有種で「タカトオコヒガンザクラ」種で、現在公園内には約1,500本を数え「桜の日本三大名所」や「日本さくら名所100選」の選定を受ける |
上の橋(桜雲橋)の上から堀底を見る | 問屋門横の石垣 | |
上から見下ろした空堀 | ||
問屋門 | 問屋門から続く桜雲橋 これを渡ると二の丸 |
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結構幅の広い空堀 先の 写真の反対側 |
結構幅の広い空堀 先の 写真の反対側 |
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空堀から上に上がった ところにも少し石垣が… |
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二の丸から南ゲートを 出て土手を歩く |
同様に左手に堀を見ながら 北ゲート方面へ向かう |
北ゲートの側の土橋より堀を見る、 この橋は公園整備の過程で埋められたもの |
1860.3 三の丸に創設した藩校「進徳館」内部を見ることができる | ||
高遠城大手門 高遠高校がS59年までこの地で正門として使用されていた。この形は切り詰められ当時の姿ではない | 三の丸と本丸の間を通る道(観光バス、歩行者が通る)を元高遠城楼門方向へ歩く | この道のはずれにある石垣 |
大手枡形の一部を構成する石垣 | 大手門跡 廃城後、この周辺の改変は著しく往時の様子をうかがい知ることができないが、道路南東にある大きな石垣(左の写真)は大手枡形の一部と思われる。 | 大手門跡より高糖城下町を見下ろす |
アクセス: JR 中央本線茅野駅から桜まつり期間中はJR臨時バスで約1時間 JR 飯田線伊那市駅よりJRバスで約25分 |
※ You Tubeに「高遠城ー長野県伊那市」を投稿しています。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください! |