よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりネット

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

高崎城 群馬県高崎市高松町 2014.2.3 訪問お知らせ


  ~ 築城主:井伊直政 築城年:1597年 主な城主:井伊氏、諏訪氏、松平氏、安藤氏 廃城年:1871年 主な遺構:乾櫓・東門(移築)、水堀 再建造物 指定文化財:群馬県重要文化財(乾櫓) ~
天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏は滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。当時、箕輪城主であった井伊直正は家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町屋や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下の城と並榎の砦の二つの外堡を持っていたが。高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。井伊氏が築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。現在の遺構は、、三の丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初年の御三階櫓の写真や、「高崎城大意」「高崎城断面図」「御城御土居通、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されており、これらによって往時を知ることができる。(高崎市教育委員会が現地に設置の案内板より)
高崎駅外観 県庁所在地ではないが交通の要衝であり結構でかい駅だった  駅よりほぼ西の方角に歩き、烏川方向、高崎市役所・群馬音楽センターを目指す 左下の地図の現在地付近より右側、「音楽センター」方向の水堀を見る
 高崎城址周辺の案内図…左の現在地のところから、先ず右に行き「乾櫓」方向へ。
その後、現在地のところから左に、水堀沿いに回り高崎公園に向かった。
 奥のビルが高崎市役所…本丸に位置する
   
左の地図の現在地のところの右上の土塁と石垣…手前が水堀
 
 先の石垣部分から土塁に沿って「乾櫓」へ向かう 「乾櫓」への案内板  一番奥に乾櫓と東門(右側が堀)
土塁の上から水堀を見下ろす  乾櫓 「本丸は四隅に四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓。17世紀末の建築と推定される。この櫓は、東門と共に農家に払いさげられていたが、県重要文化財の指定に伴って昭和54年この位置に移築復元された」…群馬県・高崎市教育委員会がこの場所に設置の案内板より
乾櫓
乾櫓の下にいた小鳥(つぐみ?)
…ビスケットをあげたら寄ってきた
乾櫓の標柱と遠景  乾櫓の傍の東門の裏側…県重文なのに、やや無防備では?
乾櫓を別の角度から 最初の写真からちょうど反対側 石垣 
乾櫓と東門 「高崎城には石垣がほとんどなかった。この櫓の石垣は土囲敷が広い面積を占めないよう止むを得ず築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石垣があったに過ぎない」…高崎市教育委員会が設置の案内板説明より  この辺の石垣も素性がよくわからない…
 
  
史跡 高崎城址の説明版とそれに続く石垣類…これらの石垣の説明がなく用途・素性は分からない
(石垣は殆ど使用しなかったはずだが、発掘で出てきた石を復元したものか)
「高崎城東門の由来」の案内板にあった縄張り図(光線の関係でちょっと見にくい)  高崎市役所前の水堀の名残り(カルガモがたくさんいました)
   
高崎市役所裏手にある土塁のところに「高崎市指定史跡 高崎城址 (高崎城三の丸外囲の土居と堀)」の標識
 
先ほどの城址の標識のところを少し下がって撮影(右側が水堀)  今度は、本丸(市役所)に向かって反対側(左側)の水堀を見る 左の写真の堀を端から見る(この辺の堀は幅が狭いが面影は残す)
   
 本丸内部(市役所・国立高崎病院側から)土塁を見る  市役所前の城址公園
(本丸の一部)
 高崎駅まで戻り市役所方面を見る
     
交通アクセス:JR高崎駅から徒歩約10分
   ※ You Tubeに、「高崎城―箕輪城主であった井伊直政が築城」をアップしました!こちらからYou Tubeにジャンプして、フォトアルバムをご覧ください!

ギャラリー