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多賀城 宮城県多賀城市市川 2013.10.22 訪問お知らせ

~いにしえの人々が行き交うまち多賀城~ (多賀城市観光協会サイトより)
築城時期:神亀元年(じんきがんねん)(724年) 築城者:大野東人(おおのあずまびと)陸奥国府と鎮守府が置かれた。2006年 日本100名城(7番)に選定
多賀城は、奈良時代に陸奥国の国府として造営され、それ以後中世まで国府が置かれた遺跡である。多賀城の名が文献に初めて登場するのは「続日本記」の宝亀11年(780年)の記事であるが、天平9年(737年)の記事には「多賀柵」の名がみえる。また、奈良時代のはじめのころ「鎮所」、「陸奥鎮所」の名がたびたび史料に登場していることなどから、多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府も置かれ、政治的軍事的中心地となっていたものと思われる。多賀城は、延暦21年(802年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営によって移されてから後も陸奥国府として、また11世紀の前9年、後三年の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治5年(1189年)の源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめている。(文化庁、宮城県、多賀城市が現地に設置の「特別史跡多賀城跡附寺跡」説明板説明板より抜粋・編集)
 
 JR国府多賀城駅前にある案内図を見て全体の位置関係を頭に入れてください! 駅の南口を出たところに「東北歴史博物館」があります。
ここで予備知識入れておくといいかも!
 
 「東北歴史博物館内に展示の7世紀~9世紀の多賀城とほかの城の位置を表示している。
 国府多賀城駅…北口を降りたところに観光案内所があり、ボランティアガイドが案内してくれる。 特別史跡「館山遺跡」…多賀城に赴任した国司の館跡と考えられる。6棟の建物跡がが発見された。全て9世紀前半に存在していたと考えられる。
 
 「外郭南門跡」の標識…多賀城の政庁の正面約350mに位置する南門と築地塀の跡がここで発見された(築地塀は遺構保存のため梅戻されている) 「外郭南門」説明と推定復元図   南門跡の標識 
   
 「多賀城碑」がこの中に安置…碑文は前半が京(平城京)などから多賀城までの距離が記されている。後半には神亀元年(724年)、大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762年)に藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記されている。碑は歌枕「壺碑
(つぼのいしぶみ)としても有名で元禄2年(1689)松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、その時の感動を紀行文「おくのほそ道」に書き残している。…長い年月を経ている割には文字もはっきり読み取れることから「土中」におかれていたのではとの推測もできる。この石碑のレプリカが東北歴史博物館にあった。
     
多賀城碑(壺の碑)の標識 道路より多賀城碑への階段
  政庁跡入口と多賀城碑への案内標識
 政庁ー南門間道路(萩大路)

多賀城政庁跡入口
萩大路…多賀城南門から政庁へ通じる道路をみやぎの萩植栽により表示したもの。初めはコスモスを、翌年は春にポピー、秋にコスモスによる表示と続けてきたが、あの東日本大震災により中断を余儀なくされた。 史跡多賀城跡の標識
    
城前地区の標識 南門跡  西翼廊跡(向かって左側部分)
   
 政庁南門跡の説明と推定復元図 西南建物跡の標識 政庁南門跡の礎石
     
政庁南門跡礎石群   石敷広場跡
     
 政庁正殿跡 政庁正殿跡(ズーム撮影)  政庁正殿の上
     
 政庁正殿上…先の写真の反対側  政庁正殿跡を別の角度から
     
 政庁跡の標識   北西門跡 北西門跡政庁跡と外郭南門への案内表示 
東北歴史博物館にて展示の復元模型…平城京に似ている?!  
  
菖蒲園が多賀城席の周りに
 東北歴史博物館に展示の復元予想図
南北大路が政庁へまっすぐな大路となっている。
 
 作貫地区の標識
 
多賀城廃寺跡
多賀城廃寺跡は、多賀城跡の南東約1kmの低い丘陵上にある。この寺院については、古代の文献には何ら記録されていないが、大正11年の史跡指定にあたって、これを多賀城の付属寺院であるとみなし、多賀城跡に附指定されたものである。発掘調査は、昭和36、37年に実施され、主要伽藍が明らかになった。伽藍は東に塔、西に東向きの金堂があり、両者の前方中央には門があり、中央後方には講堂がある。門(中門)の左右からは築地が延び、塔、金堂を囲んで講堂の左右にとりついている。講堂の後方には、大房と少子房からなる僧房があり、大房の東西には倉も見つかっている。この廃寺跡からは、多賀城跡と同じ創建瓦や9世紀後半の瓦と同笵(どうはん)のものも出土し、10世紀中頃の土器も見つかっていることから、この寺院は、多賀城と同じような変遷をたどったものと思われる。(文化庁、宮城県、多賀城市が現地に設置の「特別史跡多賀城跡附寺跡」説明板説明板より抜粋・編集)
 東北歴史博物館の裏の山を越えて多賀城廃寺方向へかう  多賀城跡附寺跡の石碑 東倉と鐘楼の間から入ると右手に大房の跡が… 
 多賀城市教育委員会が編集・発行のパンフレット「特別史跡多賀城跡附寺跡」より転載させて頂きました。伽藍配置の位置関係がよくわかります。  東倉と鐘楼の間からなる
     
講堂跡
 
金堂跡地   多賀城廃寺跡の説明板
    
 塔跡
    
 金堂跡  塔跡 
     
「西南建物跡」の表示 西方建物跡  周囲を取り囲む土手…
 
アクセス:JR東北本線 国府多賀駅下車 徒歩約 10分

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