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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

立川氏館 東京都立川市柴崎町 2014.12.23 訪問 2014.7.19 再訪お知らせ

~ 築城主:立河宗恒 築城年:15世紀?  主な城主:立河一族 廃城年:不明 主な遺構:土塁 東京都指定史跡 ~
 玄武山普済寺(げんぶざんふさいじ)は、開山は物外可什禅師、開基は立川宮内少輔宗恒により文和2年(1353)に創建されたとされます。立川(河)氏は武蔵七党西党日奉氏の士族で、地誌類の記述や、多摩川を望む眺望・防御に適した立地、現在も山門脇に残る土塁、普済寺北側の通称首塚から発見された板碑80余基などから、この普済寺の地が立川宮内少輔の居館とされます。この鎌倉時代の居館に南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前身)を建立し、戦国末に立川氏滅亡した後に現在の普済寺となったとされてきました。平成8年(1996)以降の発掘調査等により、15世紀前半から16世紀前半にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV字溝などの遺構が発見されています。居館は、切り立つ段丘崖と直行する東西2本の土塁や地割などから寺域を囲む長方形区画の居館が想定されていますが、地中レーダー探査による想定範囲を超えた区画溝の痕跡もあり、居館の範囲や居館と寺院の変遷過程の相検討が必要です。(東京都教育委員会が現地に設置の案内板、「東京都史跡 立川氏館跡」より)
右の2枚の写真の奥には、後世に作られたと思われる石橋があり、それを超えて本堂・土塁の方向へ…  山門入り口には、国宝六面石憧の案内板が。本堂裏に安置されている
   
 山門を潜り、参道を振り返りみたところ…四脚門形式建築年代は不明
 
石橋を超えてすぐ東南方向にある土塁の一部(今は石垣・コンクリート固めになっているが)であろう…  東京都教育委員会が設置の案内板…1996年以降の発掘調査により、15世紀前半から16世紀前半にかけての屋敷に伴う建物跡、井戸跡、門跡、柵列跡や東側土塁脇から区画を示すV字溝などの遺構が発見されている、等々の説明が。右の写真は本堂全景 
 
本堂の東南側に残る土塁…土塁下部の石積みと左の写真の石積みは、後世のものと思われる。然し土塁全体では36mほど残ると説明板には記されていた。 
   
 説明版では、井戸跡遺構も発掘調査で発見されたとのことだが、これは違うように思える、特に説明版もない…
 
 こちらは、本堂の東側に位置する、虎口・正門と思われる場所…一応、現在も門として残されているようだ  左の写真のやや右奥の堀跡ではないかと言われている場所…
土塁全体を、本堂側から見る…上がる階段が見えるが、これも後世のものだろう。
六面石憧(せきとう)の説明版… 普済寺の西側、墓地の横の根川と、奥に見えるのはJR中央線の鉄橋…立川氏館跡は、子の根川を臨む台地上にあり、立川段丘の崖線(役13m)に位置している。
  
 六面石憧(せきとう)は厳重に建屋の中に安置されているが、公開されている…建屋窓越しに撮影した
 
   山門脇にあった「普済寺内文化財案内」によれば、『ここは立川宗恒の首塚と言われているが、これについては、江戸時代から二つの説がある。一つは「武蔵名勝図絵」の、宗恒の墓を後になってここに移したものであるとする説。もう一つは「江戸名所図会」の、立川合戦の戦死者の首塚で、宗恒の墓所は不明であるとする説。…現在、首塚の上には星梅鉢紋の石板が1枚立っているが、立川氏の墓の石扉の2枚のうちの1枚ととみられる。』と説明がある 
  
 普済寺境内にあった蓮…見事に咲いていた!
 
交通アクセス:JR中央線立川駅から徒歩約20分。或いは、多摩モノレール「柴崎体育館」駅から徒歩約10分…

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