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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

諏訪原城 静岡県島田市金谷  2017.2.26 訪問お知らせ

 ~ 築城主:武田勝頼 築城年:天正元年(1573) 主な城主:馬場信春、今川氏真、松平家忠 廃城年:天正18年(1590)頃 主な遺構:郭、土塁、空堀 国指定史跡 ~
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されています。当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、「家忠日記」には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。(島田市教育委員会が現地に設置の案内板「国指定史跡 諏訪原城跡」より)
 金谷駅から諏訪原城跡に向かう途中、旧東海道石畳入口手前にあった案内板よりマップを拝借…朱色で記したルートで南に下がり、JR東海道線の下をくぐって北側の城跡に。  国道473を横切って「旧東海道石畳」に入る…少し歩くと下の写真の石畳入り口部分へ
     
 東海道金谷宿 石畳上り口 の標示柱が…石畳の道を暫し歩く
 
 島田市指定史跡 「金谷坂の石畳」の説明板…諏訪原城跡も近い  江戸時代に、金谷宿と日坂宿の間の金谷峠の坂道を歩きやすいように山石を敷き並べたものとか…慣れないと歩きにくい?!
    
 234号線に出て、少し歩くと右下の写真の標示柱が見えてくる…
 現地案内板より縄張り図を拝借。旧東海道から、大手南外堀に来て、大手曲輪を通り、大手北外堀→二の曲輪中馬出→二の曲輪→本曲輪→搦手口→二の曲輪(カンカン井戸)→水の手曲輪→三の曲輪→三の曲輪馬出→三の曲輪南馬出→三の曲輪東馬出→三の曲輪→内馬出…のルートで回った…この縄張り図では三の曲輪の標示はないが、現地には三の曲輪との表示もあり、「静岡の山城ベスト50を歩く」も参照して表記した。
        
 ②の場所から大手南外堀を見る(この写真が土橋から左側、西側)… ①の位置にあたる大手曲輪への入口(虎口)…大手曲輪は茶畑になっている
     
 土橋上から右(東)側の堀底を見る…
 
 縄張図の③の位置から見る外堀の堀底…かなり深い、10mはある?! 大手曲輪内にあった「大手南外堀」の標示柱…
     
 大手曲輪の茶畑越しに、「茶」という文字を表した山の中腹…さすが茶所牧の原
 
 順路標識に従い先ずは二の曲輪方向へ歩く… 武田方当城主「今福浄閑戦死墓塚」の標示柱が茶畑の中に…   武家屋敷跡の標示…⑤の位置
     
大手北外堀(右の写真 縄張図の⑥)を過ぎてすぐ左に「史跡 諏訪原城跡」の石碑柱…
大手曲輪の端から振り返る(図の④)…左側が外堀
⑧の位置辺りから見る二の曲輪中馬出…丸馬出・三日月堀(武田の築城を物語る)。奥に工事中の「門」が見える(右下の写真参照) ⑦の位置…総郭(本来は広かった)
 
馬出入口に設置の「工事のお知らせ」…門建築工事一式
 
 二の曲輪中丸馬出のところの三日月掘りの説明…⑧の位置  外堀に架かる土橋…向こう側が二の曲輪
     
こちらは二の曲輪と隔てる二号堀の説明板…右の写真はすぐ右の土橋。向こう側が二の曲輪
 
 右上のの写真の土橋上から、右(南)側の堀底を臨む…   同様に土橋上から左(北)側を見る…
     
 東方向へ続く…
 
 本丸東の空堀(最内側の堀)へ続く。最初は比較的歩きやすい。それな  図面の二の曲輪の中ほどの「仕切り土塁」…仕切り土塁?この先は三の曲輪と思われるので、二つの曲輪の仕切りということか? 縄張図の⓭の位置から見た。 
     
 二の曲輪全景を北方向に見る…
 
 二の曲輪と本曲輪の間の内堀を跨ぐ土橋…  内堀の二の曲輪側の標識…「副将級の武士の詰所、及び武器庫や来城者の控え所にもなる」との説明が
     
個々の堀底は三段になっている珍しい溝の空堀…甲州流の特徴とか
 
 本丸馬出口…図面の⑮のところ   本曲輪…本丸跡との標示が見える 
     
 本曲輪虎口の空堀…説明板では自然の地形を利用したものとか
 
 本曲輪全景…⓰の位置   天守台跡…しかし天守閣はなかった。二層からなる物見櫓があったか
     
 本曲輪の北東端…搦手口のところ
 
 この下に絡め手曲輪…図面の⓱辺り ⓲の位置から上の方(本曲輪)を見上げる… 
     
 搦手外曲輪に降りて北側の道路を見下ろす…⓲の位置か
 
 右上の写真部分から本曲輪へ上がって、内堀を左に見ながら南方へ歩く… 
     
 左の写真の左側の堀のこと…十六号堀
 
 十六号堀の底を見下ろす… 本曲輪より眼下に東海道線を見下ろす…遠くに大井川、線路上には電車が見える
     
 縄張図の⓳のところ…
 
 本曲輪の南西端から、二の曲輪(カンカン井戸)方向へ降りてゆく…  本郭の一画に改めて諏訪城跡の説明板と方位標示板 
     
 カンカン井戸方向へ行く…
 
 二の曲輪に降りて、図面㉑のところのカンカン井戸に来た…  ㉒の位置…内堀の底にあたる 
     
カンカン井戸…名前の由来は? 
 
 水の手曲輪を目指してここを降りる…  水の手曲輪との標示柱は見当たらなかったがこの辺だと思われる…㉔の位置
     
 三の曲輪の残存土塁…縄張図では三の曲輪との表示はないが現場では   再び、上に上がり三の曲輪方向へ…
     
三の曲輪方向へ…
 
 三の曲輪馬出方向へ…図面では二の曲輪大手馬出  図面の㉖の場所…この先が三の曲輪(二の曲輪大手)馬出… 
     
 馬出との間の空堀…
 
 右上の写真の土橋上から左側の空堀底を見下ろす…  二(三)の曲輪 東、南、東内馬出方向への道標…
     
 切り立った堀の斜面を「壁立」というとのこと…
 
 壁立の説明板を過ぎて、外堀に沿って諏訪神社方向へ… 城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と称されたとか… 
     
 諏訪神社境内…奥の建物が本殿?
 
 外堀に沿って南馬出方向へ進む…図面の㉗の位置か   諏訪神社の境内にあった城跡碑…
     
 大自然湧水を利用した水堀…
 
  縄張図の㉘の位置に当たる… ㉗のところの空堀か… 
     
 二の曲輪東内馬出…
 
 二(三)の曲輪南馬出…奥に見えるのは民家・駐車場  二(三)の曲輪東内馬出… 
     
 ㉙の辺りか…
 
 十二号掘…半月型水堀 三の曲輪大手馬出のところか… 
     
 大手口に戻ってきた…最初に入ってきた大手南外堀の近く
 
 アクセス:東海道線 「金谷」駅下車徒歩約30分
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