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島崎城 茨城県潮来市島須530 2023.619 訪問 | ||
~ 築城者 島崎成幹 築城年 応永年間(1394~1428年) 主な城主 島崎氏 廃城年 天正19年(1591) 遺構 曲輪、土塁、空堀、馬田氏、井戸 潮来市史跡 ~ | ||
島崎城は、常陸大掾市氏の庶流で行方氏の一族、島崎氏の居城である。鎌倉初期に行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹が島崎に分封されて島崎氏を称した。しかし島崎城の築城時期は明確ではなく、一説には応永年間(1394~1426)、十一代成幹の時に築かれたとも言われる。尚、宗幹の長男為幹は行方氏の総領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、三男家幹は麻生に分封されて麻生氏となり、四男幹政は玉造に分封された玉造氏となった。この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。当初四頭は、小高氏を総領とし、島崎・麻生・玉造の三氏が総領を支援する形で結合していた。 しかし、時代が下がると一族相争うようになり、後には島崎氏が最大勢力となった。島崎氏は代々左衛門尉を名乗り、室町後期の十三代長国は善政を敷いて、中興の盟主謳われた。戦国時代になると、島崎氏は積極的な外征を行って勢力を拡張した。十四代忠幹(安国)は、1522年には同族の長山城主長山幹綱を攻め滅ぼし1523年の鹿島氏の内訂に鹿島城を攻め、1537年には同族の玉造宗幹をを攻めた。1584年には島崎義幹が麻生城主麻生之幹を攻め滅ぼすなど、四万五千石を領して鹿島・行方両郡に割拠する国人領主で筆頭の地位を得た。この戦国後期には、勢力を拡張する佐竹氏に従うようになり、1584年の沼尻合戦などにも佐竹氏の一翼を担って参陣した。しかし、1590年の小田原の役後、佐竹氏が豊臣秀吉から常陸一国を安堵されると翌91年には佐竹義詮は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・? 等の鹿行地域各氏に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き参集した島崎義幹・徳一丸父子ら15名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿業地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした。いわゆる「三十三館の仕置き」島崎城も佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以後廃城となった。 (登城口に置かれていた案内パンフ、「常陸国南方三十三館 島崎城跡 登城案内」より引用)…島崎城跡を守る会が発行) |
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