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小弓城(おゆみじょう) 千葉県千葉市中央区南生実町(みなみおゆみちょう)2014.5.8 訪問お知らせ


~ 築城主:不明(原氏?) 築城年:不明(12世紀初頭?)  主な城主:原氏、足利義明(小弓公方) 廃城年:1538年(第1次国府台合戦時) 主な遺構:土塁・空堀の一部 ~
 千葉城(猪鼻城)築城の頃に小弓城も千葉城の守りの要衝として築かれ、重臣の原氏に守らせました。永正6年(1509)連歌師柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は城主原胤高(たねたか)に招かれ、小弓館(おゆみやかた)で猿楽や連歌に興じたことをその旅日記「東路(あずまじ)の津登(つと)」に記しています。永正15年10月15日、真里谷城(まりやじょう、木更津市)の武田怒鑑(じょかん)は古河公方貴基(こがくぼうたかもと)の弟足利義明を奉じて胤高の守る小弓城を落とした。ここを本拠にした義明は「小弓御所」(おゆみごしょ)とも「小弓公方」(おゆみくぼう)とも呼ばれるようになり、里見氏の支援を受け、後北条氏方の千葉・原氏と争った。天文7年(1538)国府台の戦いに義明は敗死し、再び原氏入城したが、城を北西1.5kmのところに新たに築き(北小弓城)、本拠地としました。城は南と西側は水田で、北は支谷に、東は大百池(おおどいけ)にそれぞれ画された標高20~25mの台地一帯で、城跡の内外に古城・東掘り・城出下(きりした)など城郭に関係した地名が残され、ここが城跡であったことを示しています。現在でも、城の西北端(千葉市埋蔵文化センター裏)と南西端の墓地脇に土塁状のものが認められます。(千葉市教育委員会が上記説明の「墓地」に設置の案内板より)
 後述の、墓地に設置の説明版に記載の、「小弓城跡の図」から転載しました。西北の「千葉市埋蔵文化財調査センター」の裏の、土塁・空堀の跡の場所から下の方の古城の部分の八釼神社~墓地の順で回った。この図で見るとかなりの規模であったことがうかがえる。残念なのは、道標的なものは一切なく、地元の親切な人たちに教えてもらわなかったらとてもたどり着けないこと…  京成千原線「学園前」駅徒歩15分(先ずは、埋蔵文化財調査センターを目指すのがよいだろう…小弓城址を知らない人が多いと思われる)
   
 京成「学園前」駅
 
 「千葉氏埋蔵文化財調査センター」入館料無料。駐車場も完備。間違わずに来れれば10分~15分で来られるはずだが、結構紛らわしい…学園前駅から「明徳学園」側に降りて(進行方向右側)明徳学園に沿って歩いて行く  「埋蔵文化財調査センター」の横の
「堀底道」に通じる階段…右側が主
郭部か
 
 センターの右側の主郭部の中を、フェンス(ネット)越しに撮影…この奥が空堀跡らしい。  センター横の通路から、西側に入る通路。左が残存の土塁と思われる。右側がネットフェンスで囲われた主郭、空堀部分。 
   
 フェンス・ネット越しに内部の
空堀らしきところを見る…
 振り返って、来た方向を見る…奥が調査センター  再度、センターとの間の道に戻る
     
 南西方向から見た小弓城の。  右上の写真の部分を少し手前から撮影。堀底道の雰囲気は伺える。
八釼神社を探していた時に
見つけた石柱「小弓城と森台貝塚」
前方に見える森が八釼神社のある場所 八釼神社の手前の古城との間の堀底道。左側の道より八釼神社に向かう 八釼神社の本殿の屋根らしきものが見えてきた
 堀底道らしいところを
通り神社の正面に向かう
日本武尊が東征の時にこの地で乱を平定し、これより南を上総、北を下総の国の国境にせよと申されたという。 
左が拝殿  奥に見えるのが本殿だろう 神楽殿 この神社に伝わる神楽舞は、巫女舞、湯笹の舞、猿田彦命の舞など12座からなる
   
八釼神社裏の竹林にわずかに空堀跡が残る 最後に、城址碑のある墓地を目指す…これはお寺の裏ではなく独立した墓地であり、やはり非常に分かりにくい…地元の人に聞いた通り竹藪を目印にして、そこを左折して向かった。
   空堀跡の拡大写真 よく見ればそんな雰囲気もあるが、もう少し整備してくれればありがたい ここも旧城域だが、ポツンと城址の碑と解説板があった。ここに入る途中の道路にも全く案内表示がない…
 
 上の写真の左側の石碑、判読困難だが、拡大すると少しは読める…一番上の場所に、「小弓古城址」とある。
 
交通アクセス:京成千原線 「学園前」駅 徒歩15分

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