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  大椎城(おおじいじょう) 千葉県緑区大椎町 2014.9.9 訪問
 〜 築城者 平忠常 築城年 平安時代末期 主な城主 千葉氏、酒井氏 廃城年 天正18年(1590年)? 遺構 土塁、空堀 〜
大椎城は平安時代末期、上総・下総に強大な権力を持ち、長元の乱(1027〜1031)を起こした平忠常(たいらのただつね)が築城したと伝えられている。その後、一門の末孫・千葉常兼(つねかね)の居城となったが、常兼の死後、その子常重が大治元年(1126年)猪鼻城(いのはなじょう)に居を移したことにより廃城となったと考えられている。千葉氏発祥の地と言われる大椎城は、千葉市街より東へ15km離れた村田川上流の標高80mを測る急峻な台地上にあり、現在でもその保存状態は極めて良好である。今まで発掘調査は行われていないが、昭和46年に千葉市史編纂事業の一環として測量が実施され、東西に延びる舌状台地を四つの空堀で区切った連郭式の城であることが明らかになった。なお。大城跡は民有地のため内部への立ち入りはご遠慮ください。(千葉市教育委員会が1997年3月に現地に設置の案内板「大椎城跡」より)
 村田川に架かる「新大椎橋」から、遠くの森にある「大椎城」を臨む。この村田川が天然の堀となってるのか… 「二級河川 村田川」の標示
「新大椎橋」の標示
 
村田川に沿って城域方向へ行くと、次の写真にある「案内板」が見つかった。…ここにたどり着くまでが大変でした。親切な地元の人たちに教えてもらい、時には自ら案内していただき、ここに着きました。…次の案内にあるように、親切な地元の人たちの家の裏が城域になっているようで、本来立ち入り禁止の場所でした。折角の、貴重な遺構が保存されている城跡であり、地元の協力も得られそうであり、ぜひ、市の「文化課」なり観光課(?)なりで、さらなる調査を経て、案内板・道標などの整備をして頂ければ!
 
 案内板…上の縄張り図は箱の案内板より抜粋しました。説明文は冒頭の説明に引用しました!  案内板より橋を渡り、大椎城のある山に向かう…
 (右の説明から続く)地図の裾の部分に比較的歩きやすい整備された道があり、何かを期待してひたすら歩いた…  先ほどの地形図の現在地から歩いて山裾に来たところ…ここは公園のように整備がされている、ベンチもある。ここから地形図を見てまっすぐ、地図上の「大椎城跡」の文字の部分へ何とか行けないかあちこち探したが直接は無理みたいだった。 
  
 通路わきを見下ろすとちょっとした堀のようになっていた。郭と郭の間の空堀?…全く情報がなく不明!
 
 その後もあるけどあるけど何もなく、ようやく、看板が見えてきたと思い足早に行くと「おおじの森(里山地区)指定標識」とのことだった!  そして、更に、蜘蛛の巣はあちこちで引っかかったが、とにかく、歩きやすい道を、ただ黙々と歩いた… 
       
 …そしたら、突如「こんな看板が」。今まで立ち入り禁止の場所を歩いていた?… そしてその先には鍵のかかった鉄扉が…やっぱり入ってはいけないところだた。知らなかったとはいえ、ごめんなさい!  …急いで、最初の公園的な場所に戻った!
     
 城跡の南側の山裾(バス通り側)に戻って、裏の山が自分の土地と言う地元の人に教えてもらい、その民家の横から山に入った。入ってすぐの場所にお社があった。その横の道を、とにかく、遺構的なものを求めてひたすら歩いた…   一旦反対側に出たので、今度は林間通路、比較的歩きやすく整備されてる感があった道を進んだ…
 空堀の名残かとか、削平地だったのかとか、いろいろ想像しながら歩いたが、何ら具体的成果が得られず、ぐる〜と回って再度南側の民家のそばまで戻った。
     
 ここの場所の横、空堀かと思ったが確認はできず… 最終的に、またしても入場禁止的に横断ビニールがつりさげられた入口らしきところに出た!  仕方がないので、そこからバス通りの方まで歩いた。ここの民家の石垣は立派だったが、城跡とは関係ないだろう?
     
アクセスJR外房線「土気」駅から徒歩20-30分
 ※「大椎城ー千葉県千葉市緑区 平安時代末期に築城か」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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