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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  小田城 茨城県つくば市小田 2014.10.7 訪問
 〜 築城者 八田知家 築城年 12世紀末 主な城主 小田氏、梶原氏、小場氏 廃城年 1602年 遺構 郭、土塁、水堀跡 指定文化財 国指定史跡 〜
小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久4年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が亡びると、7代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延元3年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で「神皇正統記」、「織原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄12年(1569)の手這坂の合戦に敗れて土浦へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替されて廃城になった。小田城は本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタールほどを八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接侵入できないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。(昭和62年3月につくば市教育委員会が現地に設置の案内板「国指定史跡 小田城跡」より)
JR常磐線土浦駅西口より、バスに乗って「小田十字路」で降りて、暫く歩くと、道路の辻に小田城についての案内看板があり、その中にあった地図。地図上の現在地の場所にあった。
バスを降りたところに標識…  ちょっと読みにくいが、ここにも「小田城跡」との案内標識が… 住宅街の細い道を歩いていくと、沼地的な場所に…城跡に到着
この縄張り図も、先ほどの辻にあった案内板より。現在は本丸・東郭とその周りの馬出部分のみだが、引き続いて発掘調査がなされており将来的にはもう少し復元されるのだろう。  すぐ上の写真に続く場所…この畦みたいな道は足場が歩く途中で断念、元の道路へ戻った。
 
外周サイクリング道路より
…東郭・東掘り側から本丸の土塁と小学校方向を見る。
 
北側の土塁越しに小学校が見える…  本丸と東郭の間の堀…サイクリング道路より
本丸内部を覗き見る… 本丸と東郭の間の水堀…
左側が本丸…サイクリング道路の右が南堀に当たる
本丸の土塁から、南西馬出郭方向を見る  南西馬出郭に続く橋と南堀。入口にロープが張ってあり中へ入れない。
 
 このサイクリング道路の先に、城址碑のある「涼台」がある… 南西馬出郭の南側方向にブルーシートに覆われた、発掘調査中とみられる場所が…
     
 ズームアップしてみると、障子掘り的な区画が見えるが、実際はどうか…
西堀を隔てて、木橋の向こうに別の郭が…小田城跡の案内板がここに  南西馬出郭を堀の外側から見上げる…
 
西の方向の郭から本丸方向を見る… 
 西堀から北堀に出る。この辺を、関東鉄道の線路が横切っていたが、今は廃線となった由。 北堀のサイクリング道路に面したフェンスに、小田城関連の説明が…  北堀越しに本丸側を見る…石が積み上げてあるが、発掘で出てきたものではない?
この看板が…城跡復元工事は来年3月15日までとある。 復元工事の看板の先には本丸の入り口が見える…    「つくばす」があった。これで「つくば」駅に向かった。300円。
アクセスJR常磐線土浦駅西口からバス約20分(筑波山口か下妻駅行に乗る)
 ※「小田城ー北畠親房が「神皇正統記」をここで執筆したとか…」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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