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年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

沼田城 群馬県沼田市西倉内町594 2015.4.25 訪問

 ~ 築城者 沼田顕泰  築城年 1532年  主な城主 沼田氏、本庄秀綱、猪俣邦憲、真田氏  廃城年 1682年 遺構  土塁、堀、石垣、模擬鐘櫓、堀  ~
  沼田城は、天文元年(1532(三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が約3か年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏5代城主伊賀の守が徳川幕府に領地を没収され、翌日2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46 ヶ村・飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し館も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼が公園に変貌した4.(沼田市教育委員会が現地の公園・旧本丸に設置の案内板「沼田市指定史跡 沼田城跡」より)。
JR水戸線 沼田駅から徒歩約20分…  沼田駅前の通りを真直ぐ東の方へ歩くと、すぐ小高い山が見えてくる。車の通る道は少し大回りであるが、前方に大きな階段通路が見えてくる。…近づくと沼田城址公園・大連院墓廟と道標があった。市民の通勤などの通路のようだ。
 沼田公園に入ってすぐのところに「沼田城跡」の標示柱… その隣には、沼田市教育委員会が設置の「沼田市指定史跡 沼田城跡」の案内板 すぐ隣の「テニスコート」…公園化で大きく改変されているが、ここは旧二の丸辺りと推測される。
 テニスコートを右に見て進むと、左側に天狗堂、右に旧生方家などの道標…  鐘楼…寛永11年(1634)に真田信吉が鋳造させ、三の丸の楼に架けて時報に用いていたとのこと。天和元年(1681)に真田氏が改易となったことから平等寺の梵鐘になっていたが、明治31年頃に旧沼田町役場に移された。昭和58年に沼田公園に復元されたが、鐘は老朽化のため現在は沼田市公民館内に展示されている。
 上の写真のすぐ右に「本丸跡」の標示柱…
 鐘楼のすぐ右にあった、「沼田城関係年表」(左)と「真田氏時代 沼田蔵内城」(右)…当時は5層の天守があった。  本丸北側の西櫓台跡の石垣…
     
櫓台に上がる石段と左右の石垣(ひとつ前の説明参照)  本丸の西櫓台の石垣… 「御殿桜二世」… 
 発掘調査により発見されたこの石垣は、西櫓台のものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたとされたいた。壊されずに地中に埋められていた部分が300年以上を経て再び往時の姿を現した。(現地に設置の説明板より)。 西櫓台の北側の土塁…
西櫓台から北側の郭の間の空堀を見下ろす…急峻な崖状
 天狗堂…この中には大きな天狗面がある。沼田市観光協会が迦葉山の大天狗面の分身として制作した由(説明板より)。 西櫓台横の堀越しに本丸太鼓櫓(鐘楼)を見る…
  
 顔の長さ3m、幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1トンで木彫りの天狗としては日本一の大きさ(説明板より)
 
 本丸の東側部分…堀跡か? 古城の広場から崖下を見下ろす…  東~北側に眺望が開けている…左下の説明図参照
 赤城山~浅間山・榛名山は見えるようだ。富士山はさすがに見えなかった!  平八石の由来の説明…沼田平八郎景義の首級を載せた石。平八郎は沼田氏12代顕泰の側室の子。側室とその兄にそそのかされて…詳細は下の写真の説明参照
      
 
 「捨曲輪跡」の標示柱…本丸の北側部分  沼田の歴史物語 小松姫(稲姫)…小松姫は本多忠勝の長女として生まれ、後に真田信幸の妻となる。  鐘楼方向へ戻る途中…崖の下を見下ろす。
 英霊殿隣の、上野国沼田城絵図(部分)より…3代将軍家光が天保年間に、全国の大名に城の防備体制を得ずに描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる貴重な資料。絵図は国立公文書博物館内閣文庫に保存されて大きさは1.76m×2.34m。
     
 天守台があったと思われるところのすぐ北側の空堀跡のような形状部分。 英霊殿の鳥居が遠くに見える…
     
 天守跡に建つ利根英霊殿…
 
本丸堀跡?…二の丸(野球場)から本丸(花壇部分)の間にあった堀。下の写真のところがこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部か?現地の説明板よりの推測 本丸・花壇部分から復元鐘楼を臨む…
   
 国指定重要文化財 旧生方家住宅…生方家は沼田藩の薬種御用達を務めた商家。建物の年代は専門家の意見によればおよそ17世紀末頃に建てられたものと思われる。数次にわたる修理を経ながら使用されてきた。(現地設置の説明板より)
 
 正覚寺山門…沼田市指定重要文化財。万延元年(1860)建造と伝えられている。  正覚寺概要 創建は不詳だが、沼田城主沼田顕泰によりここに移された。慶長真田信幸の正室である小松姫がの折から正覚寺が認められ、以後、沼田藩からの庇護の対象となった。小松姫が亡くなられた際に、ここにも分骨されて、「大連院殿」として墓所が造られた。
 「大連院殿の墓」沼田市指定重要文化財 家康は小松姫を養女として天正17年に真田信幸に嫁がせた。翌年7月信幸は沼田城主となり、関ケ原の戦いで徳川方に従い、東軍に付くことになった。敵味方に分かれた信幸の父昌幸、弟幸村が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、入城を拒んだ大連院殿は女丈夫とうたわれた。(右下の説明板より)
 
アクセス:JR沼田駅から徒歩約30分。    
 
※「沼田城ーYouTubeにアップしました。こちらからご覧ください。

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