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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  難波田城(なんばたじょう) 埼玉県富士見市大字下南畑568-1 2014.8.17 訪問 2016.12.21 再訪
 〜 築城者 難波田高範 築城年 不明(15世紀後半?) 廃城年 天正18年(1590年)遺構 郭、土塁、水堀〜
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活動していました。その一つの村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高徳は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高徳の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。
南北朝時代には、羽祢蔵(はねくら)合戦で高麗経澄(こまつねずみ)の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。
難波田城は江戸時代かに作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが、戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院(じゅうぎょくいん)が建てられました。
(富士見市立難波田城公園に設置の案内板「難波田氏の歴史と難波田城」より)
東武バス「富士見高校」行きで「難波田城公園南口」下車…この信号のところで右折。暫く歩くと左手に「難波田城公園南口(西口)の案内標示(右の写真)が。  公園に入るとこのキャラクター(なんばった)と「ようこそ難波田城公園へ」が…
 公園に入ってすぐのところにある、場内案内図より城跡ゾーンの図を拡大表示…水塚→資料館→曲輪4→追手門→あずま屋→曲輪3→東門→曲輪2→本城門→十玉院墓地→からえんじ色で示したルートで回った。難波田城資料館を見た後に、城跡ゾーンに向かった  左図の資料館手前の水塚についての説明板…
     
 水塚に上がってみた…
 
  資料館を出てすぐ左側の水堀  資料館に展示の案内板より…残念ながら本城、天神曲輪、二の曲輪は復元されていない(左上の案内図を参照)
     
  右の縄張り図の馬出部分(向う側の区画)とその先に旧本丸の住宅街が見える…
 
  曲輪4の場所から、水堀及び馬出から本城方向(現住宅街)を見る…  曲輪4の南側の土塁に上がり、水堀の名残を見下ろす…
     
  上と同じ場所から南側の住宅街方向を見る…
 
 曲輪4を通り、追手門(右の写真)へ…左の写真で少し見えているのが追手門 
     
 追手門の手前から資料館方向を見る…
 
 食い違い虎口…通路を屈曲させて敵が攻めにくいようにしたもの
  
食い違い虎口の説明… 
 
奥に、曲輪2越に旧本城にあたる住宅街…  左にあずま屋、その右の橋は復元木橋… 
     
 復元木橋の説明板…
 
 曲輪3から冠木門を通り東門方面に出て、曲輪3を振り返り見る…   復元木橋…
     
 曲輪3全体…
 
 曲輪1の説明板…  この冠木門を入ったところに左の説明板があったが、実際はどうか?内堀に当たる部分ではないか?…住宅街のところが曲輪1(本城)であろうから 
     
 難波田氏館跡の碑がある場所…
 
 上の写真の本城部分から出て、西側の方向へ歩くと、十玉院の墓地に出た…この墓地については右端の写真参照
     
  住宅街と本城部分の間の現在の道路のところ…この辺を歩き回ったが遺構の痕跡は分からなかった
  
 「難波田城公園南口」バス停…
 
アクセス東武東上線志木駅東口から、東武バス「富士見高校」行きで「難波田城公園南口」下車、徒歩5分
 ※「難波田城 2016ー埼玉県富士見市」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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