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全国城めぐりネット

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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城 

箕輪城お知らせ 群馬県高崎市西明屋 2013.4.23 訪問

 箕輪城は、明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(ひさなり)(業尚)が築城し、子憲業(のりなり)、孫業政(なりまさ)により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上総国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領の上杉家の再興を計って最後まで奮闘した武将である。特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦い抜いた優れた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田の総攻撃により、ついに落城するに至った。武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終わり、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏那が城主となり、城を大改修した。天正18(1590)年、北条滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町を整備した。その後、慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。(箕輪城跡保存会が現地に設置の案内板より抜粋・編集 なお、各場所での説明も原則として現地案内版を引用させていただきました)
 現地にあった案内図(縄張り全体)をコピーして、回った順序と場所が分かるように番号も入れましたので、参考にしてください。  城山口バス停から7-8分歩いて、この搦手口より入山。車も通る広い道を数分歩くと帯曲輪と二の丸方向への分岐点へ 地図の①。搦手口は城の大手に対して裏口に当る。ここにも「馬出し」があった。
     
地図上の①から数分入ったところ。真新しいウッドチップが敷き詰められており、曲輪の切株と共に現在整備中といったところか… 
 
 地図上の②、左に行くと、
通仲曲輪、御前曲輪。
御前曲輪北堀、ここでは堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、霊木山、通仲曲輪、の3つの曲輪が、それぞれくちばし状にここに集まる。3つの曲輪の間を進むと新曲輪、丸馬出しに行くことができる。地図の③ 地図上の②から稲荷曲輪方向へ。土塁、空堀。地図上の④地点。 
 御前曲輪への登り階段…地図上の⑤  先ほどの階段を上がって下を見る 御前曲輪。御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的 な中心であった。西南の角に物見・戦闘指導のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。…地図上の⑥
箕輪城跡の碑。右側には文部省とある。  箕輪城将士 慰霊碑 御前曲輪 井戸 昭和2年8月、豪雨のため一部地盤が沈下した際に古井戸が確認された。深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出された。…地図上の⑦ 
 御前曲輪西虎口…立ち入り禁止でここから先にはゆけず。地図上の⑧  本丸に入った所の空堀、この右側が本丸北虎口。北虎口の門は間口5.4m、奥行3.3mで、本丸の3か所の門の中で最大の規模のものだということが確認された。 
   
 御前曲輪と本丸の間…手前側が本丸 地図上の⑨ 
  
 本丸。箕輪城には天守閣はなかったが、多数の「かわらけ」や茶わんなどが発見されており、城主の住む建物や軍議を開いた里、酒宴を催したとする館があったと推定される。 本丸の左(東)側。下の整備中の帯曲輪を見下ろす。地図上の⑩ この石垣は 、土塁の土が崩れないように作られたもので、三段程に積まれ堀に沿って長く続いていた模様。
     
本丸南虎口 南虎口の門は間口2.6m、奥行2.7m以下と推定される。また、門に続く石畳が確認された。 地図上の⑪   本丸西虎口 西虎口の門は、間口2.9m、奥行1.5mで、堀の向こう側は蔵屋敷です。橋台のあったと考えられる場所は大量の盛り土が行われたことが確認された。橋の規模は橋上部の幅2.9m、鷹さ7.4m、長さ27mであったと推定されている。…地図の⑫ 本丸南虎口から左側(西側)に沿って、戻る途中で三の丸との間の通路を見下ろす… 
     
でかい、深い堀…   御前曲輪・本丸と通仲曲輪の間の空堀を見下ろす  でかい、深い堀… 
     
本丸西側の通路に降りて三の丸、二の丸方面へ歩く 
 
 御前曲輪 西石垣 通仲曲輪・御前曲輪の間の堀に架けられた橋の橋脚部の土留めのために自然石をそのまま積み上げた石垣(野面積)。比較的良好な状態で残っている。 地図の⑬ 同石垣のアップ… 
      
 蔵屋敷のあった曲輪の下
 
本丸堀の橋台 本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を建てた台で、堀はここで狭くなっている。南側に石垣が昔のままで残っている。地図上の⑭ 三の丸に上がるところで反対側(二の丸)を見る。ここも大きな空堀になっている。地図上の⑮   蔵屋敷跡 蔵屋敷は備蓄穀物を保管する建物建物があった場所だと考えられるが、一説では、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三の丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪へ出撃するための拠点であったとも考えられている。…地図の⑯
     
 三の丸 城中の石垣で比較的よく残っているのはここである。
     
 三の丸通路 両側に石を積み上げた堀 5.7mの通路跡が確認された。
 
 三の丸門跡 入口の三の丸門には両側の石垣の上を渡した櫓があり、その下は通路だった。地図⑰  この大堀切は東西に走り城を喜多と南の二つに分けている。こういう大規模な堀を鍬と「もっこ」で築いた人々の苦労がしのばれる。…地図⑱  
     
 三の丸通路南 鍛冶場跡 通路の南側中央部の少し西側に鍛冶炉や建物の柱跡が多数確認された。  鍛冶曲輪の石垣 鍛冶場のあった場所で中世の大きな城には良くみられ、ここで武具などを作成、修理した。このような石垣は城内各所にみられる。地図⑲  虎韜門(ことうもん)虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名付けたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。古図によればこの南に馬出しがあった。…地図⑳
     
 白川口埋門 虎韜門(ことうもん)から白川河原に出る秘密の通路で西郭城外への道はここだけである。虎口の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛り、トンネル式に造った門を埋め門と呼ぶ。 左の埋門を降りて振り返ると
… 地図の21
大手尾根口入口から観音様口入口まで来たが、その分岐点の標識版。 地図の22
     
アクセス:JR高崎駅(新幹線、高崎線、八高線)より群馬バスで、伊香保温泉行きで
     城山口下車、徒歩7-8分で搦め手口へ。そこから遊歩道で各曲輪、本丸、二の丸
     三の丸などを巡るか、榛名口入口、大手尾根口入口などから入山する。 
※ 「箕輪城~群馬県高崎市~日本100名城」をYou Tube に投稿しました 。こちらをクリックして、You Tubeのページにジャンプしてご覧ください!

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