丸子(まりこ)城 静岡市駿河区丸子字泉ヶ谷 2016.2.22 訪問お知らせ |
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~ 築城者 斎藤加賀守安元(今川氏家臣)? 築城年 南北朝~室町時代(14世紀?) 主な城主 斎藤加賀守安元、山県昌景、松平備後守 廃城年 1590 遺構 曲輪、土塁、竪堀、横堀、丸馬出 別名 鞠子城、宇津谷城、三角城 現状 山林 ~ | |||
丸子城は、丸子川に沿って走る東海道を眼下に見る自然の要害の地に築かれています。この城は、駿府防衛の西側の関門として戦国期の駿府歴史の中で重要な役割を果たしてきました。創築年代は明らかではありませんが、今川氏による駿河の国の支配が始まる南北朝時代にまでさかのぼる可能性があります。丸子から宇津ノ谷(うつのや)にかけては、連歌師宗長の「宇津山記」に記されている斎藤加賀守一族の支配地でした。斉藤氏は、泉ケ谷に居館を構え、今川家の家臣団の一員として駿府の西の護りにあたっていました。 1568年(永禄11年)の甲斐武田軍の駿河侵攻に伴い、この地も武田家の勢力下におかれ、甲斐の山県昌景等の武将が在城して今川方に備えていました。この武田氏が支配する時代に、丸子城は大規模な武田流の大改造が行われ、現在私たちが目にしている丸子城が形作られました。 1582年(天正10年)には徳川家康が、持舟城での攻防を経て駿府を武田氏の支配から取り戻します。その直前にも丸子城には武田氏の家臣が在城して護りについていましたが、丸子城における戦いの記録はなく、持舟城の攻防の前に前後に武田勢は退いたものと思われます。 徳川家康は、一時家臣の松平備後守を入城させましたが、1590年(天正18年)の家康の関東移封とともに丸子城は廃城になったものと考えられます。(静岡市教育委員会が平成7年3月に、現地に設置の案内板より) |
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JR静岡駅 北口から「しずてつジャストライン」バスで約30分で、「吐月峰駿府匠宿入口」へ。そこから徒歩約15分で登山口へ…旧東海道・丸子宿から三角山方向へ行き、駿府匠宿経由大手口に向かう。右の写真及び少し下の「丸子城跡鳥瞰図」を参照 | |||
国道1号線と旧東海道が交差するところから、吐月峰駿府匠宿方向へ。その先に丸子城への登山口がある… | |||
右の方に「大手口、駿府匠宿」の標示が見える。ここから大手曲輪経由北曲輪方向へ歩いた… | 駿府匠宿にある「おもしろ体験館」…ここで若干の資料が入手可能 | ||
丸子城跡他の案内道標… | |||
旧丸子宿 きれいに整備されている…このすぐ先に城跡への入り口の標示が(右の写真) | 登山道に入ったところの梅林… | ||
手作りの案内標示が… | 暫く、山道を歩いて、眼下に集落を見下ろして、さらに10分ほど歩く… | ||
眼前に丸子の氏神様として鎮座してから千余年の「丸子稲荷神社」が見えて来た…武田信玄が丸子城を増築整備した時除地高5石4斗4升を寄進して、守護神として崇敬された。徳川幕府も明治維新までこれを継承した(下の説明板より) | |||
駐屯地(外曲輪)との標示柱があった… | 丸子稲荷神社の裏にあった説明板より縄張り図… | ||
そこここに道標標示があり迷うことはない… | |||
北曲輪方向へ尾根筋を歩いて行く…この下の写真に「土橋」との標示がある。分かりにくいが空堀を渡る橋である。右下の写真が土橋上から右側の堀底を見たもの。 | |||
空堀の先の、腰曲輪状になっている場所… | |||
大手曲輪に来た…最初のまとまった面積を持つ曲輪である。この先に北曲輪。 | |||
この先に北曲輪が… | |||
北曲輪…今川氏時代の本丸との説明もあった | |||
北曲輪の北端に土塁の残存が… | |||
本丸広場にあった説明板より「縄張り図」…三の丸・二の丸の手前の堀から、土塁上・堀底に入り、西側の大堀を南西方向へ歩いた。本丸への食違い虎口から本丸へ上がり、その後、大鑪(おおだたら)曲輪(馬出)、二の丸・三の丸等を回り、また本丸に戻り、「誓願寺」方向のルートで下山した。 | |||
右の写真の堀切(二の丸と三の丸の間)に降りて、土塁上或は堀底道を歩いて、南西方向に行き、本丸に上がるルートをとった… | |||
この辺は空堀(横堀)もさほど深くない…右側にはもう一つ堀があり二重掘りとなっている | |||
こんな感じで、横堀が本丸下を這うように続く…右の写真は上の方の本丸広場のある台地を見上げたもの | |||
土塁上から前方を見る…右にも空堀が見える? | |||
この上には本丸広場がある… | ここでははっきり二つの空堀の痕跡が見える… | ||
左上に本丸、右側が断崖的になっているがもう一つ堀がある… | |||
横堀が続く…横堀の標示版が折れていた(右端の写真) | |||
空堀を跨ぐ土橋部分…前方が本丸広場 | 本丸への虎口、喰違い虎口… | 本曲輪(一の曲輪)の標示… | |
本丸広場に来た…周囲には土塁が取り巻く(ちょっと低いが) | 喰違い虎口とはちょうど反対側の虎口。平虎口との標示がある… | ||
平虎口から入ったところの曲輪… | |||
再び西側の曲輪方向へ行く… | 上の写真の平虎口から入った曲輪から下の方向を見たもの…更なる曲輪のようだ… | ||
本丸に続く曲輪には「馬出曲輪」とあるが、ここは縄張図的には「物見曲輪」では? | |||
上の写真の曲輪から西方向の、縄張り図の「大鈩曲輪」方向へ行く… | 横堀を跨ぐ土橋を超えて… | 空堀を(土橋を渡り)越えて進む… | |
次の浅い堀も越えて… | 堀底から左側をチラッと見て… | ここを登って… | |
上に上がると、右の写真ようにちょっとした削平地になっている。ここが「馬出」かしら?下を見下ろすと結構深い谷状になっており、そこにも空堀(横堀)が見える… | |||
左の写真とは別の位置から下を見下ろす… | |||
この辺から竹林が見えてくる… | ここから先は足場が良くないようなので、本丸広場方向へ引き返す…最初の土橋か? | 本丸広場へもう少し… | |
本丸広場から、縄張り図にある二の丸・三之丸・北曲輪方向へ行く…この写真は本丸(と二の間の間の)枡形虎口(下の写真と併せてみると枡形虎口か? | 順番としては、馬出方面から戻って、先ずこの本丸広場に来て、その後、二の丸・三の丸へ向かった… | ||
桝形虎口の標示が…奥が本丸 | |||
二の丸に来た…本丸よりはやや狭い | 二の丸と三の丸の間の堀切… | ||
二の丸の端、本丸側にあった標示… | |||
ちょっとした削平地…三の丸か?(標示柱が見つからない) | 左の写真に続く通路、堀切に出た。三の丸と北曲輪の間か… | ||
右の写真の続き部分…北曲輪方向へ行く | |||
縄張図にある「袖曲輪」か? | 北曲輪に戻って来た… | 北曲輪の端に「竪堀」の標示が… | |
北曲輪から、再度、本曲輪に戻った。帰途は誓願寺方向のルートで下山した… | |||
比較的歩きやすい通路… | |||
誓願寺へは「大鈩」(おおだたら)方向への道となる。右の写真のように林間道が続く… | |||
尾根道が続いて… | |||
右下の写真の階段を下りて眺望が開けたところから「誓願寺」を前方に見る…誓願寺は、建久年間(1190~99年)に源頼朝の両親追善のため建立されたが、天文年間に丸子城の戦火で類焼した。しかし武田信玄がこれを惜しみ再建した。この寺はまた、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところ片桐勝元は京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について駿府城の徳川家康に申し開きのためこの寺に滞在していた。 | |||
最後の階段を降りる… | |||
麓にに降りて来て、案内看板を見る。ここから登城して駿府匠宿側に降りることもいいかも | 誓願寺境内から「丸子城」を仰ぎ見る… | ||
ここで詳しい説明が… | |||
丸子路 歴史とロマン … 全体の位置関係をこれで、改めて! | 誓願寺には、片桐且元の子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。 | ||
アクセス: 東海道新幹線・JR東海道線 静岡駅北口から、しずてつジャストライン「中部国道線」藤枝行他で、「吐月峰駿府匠宿入口」下車、登山口まで徒歩約15分 |
※「丸子城ー静岡市駿河区丸子」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください… |