前橋城 群馬県前橋市大手町 2014.2.3 訪問お知らせ |
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~ 築城主:前橋長野方業(まさなり)築城年:延徳年間(1489~1492)? 主な城主:長野氏、北条(きたじょう)氏(上杉家臣)、 滝川一益、平岩親吉、酒井重忠 廃城年:1871年 主な遺構:土塁、車橋門跡 指定文化財:前橋市指定史跡(車橋門跡) 関東4名城・関東7名城 ~ | |||
厩橋(まやばし)城(前橋城)が築かれたのは、15世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉(さえもんのじょう)方業(まさなり)とされている。以後、長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、1552年小田原北条氏の勢力が上州に及び、1560年には長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。このあと上杉氏の家臣北条(きたじょう)高広(たかひろ)が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。1582年武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に入り関東管領称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには1590年4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。同8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城3万3千石に封した。親吉は1601年甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後9代の間、酒井氏の藩政が続いた。酒井氏治世時代の前橋城は城域15万坪に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に伸びる土塁と濠をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。(群馬県が現地に設置の「前橋城址碑の解説」より抜粋・編集) | |||
前橋駅外観 バスで県庁前下車 歩いても20-25分程度 | 法務省合同庁舎付近の「車橋門跡」を目指す…この和洋裁女学校のところを右折すると右の写真の場所へ(バス通り側からも同様の入口あり) | ||
車橋門跡の傍に設置の案内板より。前橋城の遺構は大変少なく、この門跡と県庁周辺の土塁のみ。 | 「市指定史跡 車橋門跡」の標識 | ||
「厩橋城の曲輪橋御門跡」の碑 | |||
左側(バス通りから入って)左側の石積の上の説明 「曲輪町都市改造事業により西方八米の地点からここに移す 昭和39年12月」と記されている | 「和洋裁女学校」側から見た門跡 | ||
「車橋門の石垣について」の説明板が近く建物のところにあった 地下に石垣が保存されている由 | 前橋公園(北曲輪)の利根川側の土塁(一部に石垣が見られるが当時のものではなさそう) | ||
土塁上から利根川方向を見る(往時は断崖で天然の要害であったとのこと) | 県庁舎の横の土塁(周囲にかなり残っている) | ||
前橋公園全景 北端部分の国道10号線沿いに東照宮があった | 県庁の傍の土塁 | ||
前橋城跡の碑入り口の標柱 | |||
県庁舎の右手土塁…右手が利根川方向 | 県庁敷地内 前方に見えるのが庁舎 |
更に、庁舎方向に歩く… | |
昭和庁舎の横の土塁 昭和庁舎は昭和3年に完成したが、平成8年に国の登録文化財の認定を受けた 保存修理工事を経て新たな県民文化の拠点として生まれ変わった | 県庁舎傍の土塁 登らないでくださいとの表示が |
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「再築前橋城復元図」…1863年に着工後3年8か月かかって1867年3月に完成した。城郭としての機能を果たさぬまま明治維新を迎えた | 右に利根川が見える? | ||
左の青色部分が駐車場、その先が利根川 | |||
群馬県庁舎32階の展望台より、東側の「車橋門跡」の場所を見る…白いエリアのすぐ左の場所 | 今度は北側、前橋公園方面 東西の道路が10号線、右下方向に土塁が見える | ||
西側を見る 利根川に架かる群馬大橋が見える | |||
虎姫観音堂 ここに設置の説明板では、「たび重なる利根川の洪水のため城域は次第に流失して遂に酒井氏に代わる松平氏に至って川越に移った。(当時の本丸は現在の河心に当たり県庁のあたりは三の丸であったと言われている)など」説明されている | |||
この推定復元の天守が、上記の虎姫観音堂の場所と言われている | 利根川に面している |
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裁判所横から前橋公園に入る 梅が咲き始め… | |||
交通アクセス:JR前橋駅からバス約6分、徒歩約20-25分 |
※ You Tubeに、「前橋城―関東4名城・関東7名城」をアップしました!こちらからYou Tubeにジャンプして、ご覧ください! |