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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

櫛崎城 山口県下関市長府宮明町  2015.5.14 訪問お知らせ

 ~ 築城者 不詳(稲村平六景家?) 築城年 天慶3年(940年)?  主な城主 ?  廃城年 元和元年(1615年) 遺構 石垣 指定文化財 なし 別名 串崎城、雄山城、長府城、長府陣屋  ~
 串崎城は長府藩主の毛利秀元が築城した近世城郭で雄山城と称していました。長門国一国と周防国の一部などを領有していた秀元は関ケ原の役の後、毛利氏の防長二か国への減転封に伴い、長門国西端の豊浦郡一帯を分知されました。慶長7年(1602)に長府に入部した日でもrとは長府串崎を城地に選定しました。串崎は海に突出した半島状の地形で、北、東、南の三方を海と断崖が取り巻く要害となっていました。室町時代、大内氏の家臣である内藤氏がこの地に城を築き、配下の勝間田氏が城主となって長府の街を警固しており、秀元はこの旧城部分を主郭として継承し、近世城郭といて整備拡大したいったものと推測されます。作事奉行は秀元の客将となっていた細川元通の家臣である秋田清長が努めました。秋田氏は功山寺の再興なども行っており、長府藩草創期の主要な普請を手掛けています。城地の西方から檀具川までに位置する御舟手、外浦、侍町、関峠などは「郭内」とされ、大身の家臣などが家宅をを構えていました。天守については、これを示唆する記録があり、また天守台の発掘調査により建物の礎石なども確認されていることから、未完、完成は別として、その存在を証することができます。この城は元和元年(1615)の一国一城令により破却され廃城となりましたが、軍事的な要地であったことから、幕末には関見台台場と城山台場の二つの砲台が築造されて攘夷に備えました。しかしながら、元治元年の下関戦争で真っ先に砲撃を受け、またたく間に破壊されています。なお、秀元は廃城後、三の丸に相当する位置(豊浦高校の敷地一帯)に館を構えて居所とˑ藩庁とし、長府藩の領国経営を行いました。(天守台下の説明板「串崎城跡」より)
豊功(とよこと)神社への坂を上る途中に、写真のような城跡碑と現存石垣が見えてくる…ここの石垣は復元ではなさそう、味のある石垣でした
 扉の中にも石垣が残っており、外から撮影させてもらった… 上の写真(右端)部分を曲がると(神社方向ではなく)このように石垣が続く… 
     
 右の写真の一部拡大…
 
右上の写真の端まで行き、振り返るとこんな感じ… 石垣の終わり部分が駐車場で、ここから坂を上がって、関見台公園に行く…
 
 公園となっている部分の石垣(発掘結果の復元石垣と公園設計で作られたのだろう)
  
 
 天守台下にあった下関観光施設課が設置した案内板「串崎城跡」より抜粋・引用させていただいた…確かに三方を海と断崖で囲まれた要害だ 天守台が見える…
   
 公園となっている…幼稚園児たちが昼食中
 
これも先ほどの案内板から引用させていただいた… 天守台へ階段を上がる…
       
 復元の石垣だが、最初に見た現存石垣と色も雰囲気も近似…よくできてますね  
    
天守台…礎石らしき石が見える…
  
 ひとつ下の郭を見下ろしていたら、黒い蛇が動いているのが見えた(わかりますかね?)…マムシではなさそう(下の写真で拡大)
 
 海側を見ると…くじら館?  豊浦高等学校方面へ降りていく通路… 黒い色のへび…結構長いですね!
アクセス:JR山陽本線 下関駅或は長府駅からバス…「松原」バス停下車徒歩約10分

 ※「櫛崎城(串崎城)山口県下関市長府宮崎町」をYouTubeにアップしました。
You Tube のページこちらから
ご覧ください…工事中。

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