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高安寺(こうあんじ)城 東京都府中市片町 2016.5.18 訪問 |
〜 築城者 鎌倉府? 築城年 不詳 主な城主 足利氏(氏満、持氏、成氏)陣所のケースもある 廃城年 不詳(高安寺そのものは現在に至る) 遺構 土塁の残存 現状 高安寺 〜 |
武蔵の国府の府中の多摩川に面した河岸段丘上に築かれている。現在の多摩川はかなり南方にあるが当時は接していた。高安寺南面の崖は、現在では6mぐらいしかないが、当時はもっと高かったうえに、下は川沿いの湿地帯で天然の要害であったか。鎌倉府は高安寺を築き、要塞化して鎌倉公方の前進基地としたため、軍事的な色彩が濃い寺院であったと思われる。高安寺は、足利尊氏が全国に建立した安国寺で後醍醐天皇などの冥福を祈った寺であった。伝説では、10世紀に藤原秀郷がこの地の要害性に目をつけ居館を築いたとされている。なお、境内には秀郷神社がある。14世紀半ばには足利尊氏が武蔵野合戦で新田義興と戦った際に陣所としたとの説もある。児山義正の乱で、足利氏満は関東12か国の軍勢を率いて、この寺を本陣として小山氏を討って滅ぼした。足利持氏は小栗光重の乱で結城城に入り指揮をして鎮圧した。帰路に高安寺城にはいり1年以上滞在した。城郭としては、単郭で本丸に当たる部分が高安寺の敷地で、周囲には空堀・土塁に囲まれていたようだが、現在では、南面の崖と、道路西側の空堀の跡と思われるところがわずかに残る遺構か。 |
JR南武線・京王線 分倍河原駅が最寄り駅。高安寺へ行く前に、駅前の新田義貞公銅像を見る。 |
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「ここは名高い分倍河原ヨ 道は鎌倉街道すじ あれは新田と北条と 火花を散らした古戦場」との石碑とその説明板… |
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高安寺の左(西)側の通り…自然の谷を利用したかなり大規模な堀だったと言われている |
JR南武線の踏切を渡ってすぐ右の当時の崖の残存…このすぐ右に南武線小線路がある。現在は精々数メートル程度の高さだが、当時はもっと高くて、多摩川の河原(湿地帯)が迫っていて自然の要害になっていたか。。 |
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右の写真の方を、西側道路のフェンス越しに撮影した… |
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高安寺入口…この手前の坂は弁慶坂と言われている。弁慶坂の説明は、こちらの写真(説明板)参照。 |
旧甲州街道(高安寺北側)に出た… |
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旧甲州街道の標示柱… |
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高安寺の由緒…「当山略縁起」(下の写真)を参照。 |
秀郷稲荷…田原藤太秀郷公を高安寺の鎮守として、ここに祀っている。 |
秀郷稲荷の横にあった「古蹟 弁慶硯の井戸」の石碑…左端の写真に説明がある |
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これが「弁慶硯の井戸」…石碑が右の写真 |
高安寺から分倍河原古戦場碑の方へ行くが、再度、南崖をフェンス越しに見る… |
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高安寺から、南武線を越えて、中央高速も越えて南の方向へ行く…下の地図の分梅公園まで歩く(この地図は上が南の方向) |
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分梅公園の「分倍河原古戦場碑」…この辺一帯が古戦場跡地ということらしい |
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分倍河原古戦場の説明板… |
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アクセス:JR南武線・京王電鉄「分倍河原」駅から徒歩10分
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