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古河(こが)城 茨城県古河市 2016.9.27 訪問お知らせ

 〜 築城者 下川辺行平(しもかわべゆきひら) 築城年 治承4年(1180年)頃? 主な城主 足利成氏 小笠原秀政、松平康長、 奥平氏、永井氏、土居利勝 廃城年 明治6年(1873年) 遺構 土塁、水堀、城門 〜
 古河城の起源は、平安・鎌倉期までさかのぼるとも、下河辺氏が築いた城館にはじまるいともいわれるが、それを実証する記録は未だ発見されていない。日本史上、古河城がが華々しく登場するのは15世紀半ばのこと。享徳3年(1454)、管領上杉憲忠を謀殺して30年に及ぶ「享徳の乱」を起こした足利成氏(1434?〜97)は、鎌倉を退き、古河に御座を構え「古河公方」を称した。以後、古河城は、5代130年にわたる古河公方の拠点となる。こうして、歴史の表舞台へすがたをみせたのであった。
 江戸時代になると、古河城は、城下町・日光道中の宿場町を包括する近世城郭として整備されていく。殊に、土井利勝(1573〜1644)は、ランドマークというべき「御三階櫓」を建造し、曲輪を増築して古河城を関東有数の規模の城に拡幅している。また、古河城は、江戸時代を通じて将軍の日光社参における御泊城の役割を担っており、公方の城として高い格式を有する数少ない城であった。ちなみに、江戸時代の古河城主は、大老2名を筆頭に、老中などの要職を勤めた大名が多い。
 中世から近世と、公方の城として関東有数の城であり続けた古河城であったが、明治6年のいわゆる「廃城令」によって、土塁・堀を除く構造物・建造物のすべてが解体されることになった。本丸・二ノ丸・三ノ丸等、かつての古河城中心部分の土塁と堀は、その後しばらく残存していたものの、明治43年にはじまる渡良瀬川改修工事によって、そのすべてが破壊されている。古河城の遺構は、現在この「獅子が崎」をはじめ、わずかに残されているに過ぎない。(獅子が崎に掲示の案内板「古河城ー水底に沈んだ名城」より)
JR東北・宇都宮線「古河」駅西口…ここから徒歩約15分で古河城跡へ。  先ずは、古河城出城跡に位置する「古河歴史博物館」を目指して歩く。下の地図で大体の位置関係をご覧ください。  古河城の中心部は渡良瀬川改修工事で水底・河川敷となっているが、市内には神社・寺社などに多くの遺構が残る… 
 古河駅から歩きはじめると、このような案内標示が随所に見られる…
旧古河城乾門…明治6年の廃城令の際に、福法寺の檀家が払い下げを受けて同寺に寄進・移築した。数少ない遺構である。右下に詳しい説明が。 
     
古河藩使者取次所址…古河城お茶屋口跡の近くに位置する 
 
 古河歴史博物館方向へ歩く…  出城・諏訪郭の土塁と堀跡…横矢が確認できるが整備されすぎで風情に欠ける 
     
 古河歴史博物館の入り口にあった標示柱…「古河城出城諏訪曲輪跡」
 
 博物館の裏手、西側の公園にあった案内図…主な訪問先とルートを朱色で示した。左下の朱色の線の先に、「古河城本丸跡」の標示柱があった。 博物館の裏手、西側にあった「長谷寺」説明板(初代古河公方成氏が鎌倉の長谷から勧請した十一面観世音菩薩像がある。)日本三長谷とか…
     
博物館裏の通りを行き郵便局手前の道(御成道)に入る…
 
 郵便局手前の道を入ると、御成道であり、この先に獅子ヶ崎土塁が…  獅子崎土塁…数少ない古河城の遺構。見事な土塁のようだが鉄柵があり入れない。
     
フェンス越しに内部を撮影…
 
 獅子ヶ崎土塁のところにあった案内板より…古河駅から歴史博物館〜獅子ヶ崎辺りの概略図。右の写真は現在は水没或は河川敷となっている本丸との位置関係がわかる
     
 同じく、獅子ヶ崎土塁のところにあった案内板より、御三階櫓が見える(古写真)。土居利勝の時代に建てられたとか。
 
獅子ヶ崎土塁のところをフェンス越しに身体を乗り出して撮った…  手前が西側、奥の方(東側)から入って来た…立入禁止状態であった
     
 獅子ヶ崎土塁の道路の反対側にあった古河阪重臣の屋敷の長屋門…
 
 上の写真の長屋門を遠くから見る…左側が獅子ヶ崎土塁  渡良瀬川河川敷・堤防…旧古河城本丸跡の標示柱のある場所は写真の手前、南方向
     
 獅子ヶ崎土塁から西側に少し歩くと、前方に堤防が見えてくる…右の写真のところに出る
 
 右上の写真のところから、右のけもの道状の通路を通り堤防の上に上がる…渡良瀬川の河川敷を右に見ながら南方へ歩くと、新三国橋が遠くに見えて、堤防上の道路脇には「古河城本丸跡」の木柱があった。この辺が本丸らしいが、まさに主要部分は水底に沈んだ(或は河川敷になった)ということになる
     
堤防上から右手、三国橋が見える…
 
頼政神社への参道…  頼政神社 治承4年(1180年)宇治で平家との戦いに敗れ自刃した源頼政の首を持参して逃れた従者が古河に葬ったものと言い伝えられている。もとは古河城内頼政郭にあったが、渡良瀬川改修工事のため、現在地・旧古河城最北端の土塁の上に移されたとのこと。
     
 夏草が生い茂った階段…山門へ続く
 
 観音寺曲輪の「古河城船渡門址」…遠くに見えるのは渡良瀬川に架かる三国橋。この近くに古河藩作事役所址がある筈だが、確認できず  水戸藩勤王志士殉難之地…頼政神社から江戸町通りを東方に少し行き、左の住宅街に入ったところにこの碑があった。古河藩牢獄跡であり、切腹した17名と斬首された12名の名前が刻まれている由。
     
この碑に刻まれている文字・人名などは判読できず…
 
 古河城追手門跡…古河城の正門に当たる。現在では、住宅街の中にこの碑のみが佇んでいるが、下の説明板によれば、「第1、第2門からなり、その間に枡形の空間を設けた形態であった」との説明が 
     
  
 正定寺境内にある、銅像…左側には「利勝山正定寺」と、右側には「利勝公御像」との銘板が… 正定寺 江戸時代初期に、古河城主・土居利勝が開いた寺で、土井家歴代の墓所がある。
   
 正定寺には、土居利勝肖像画がが所蔵されている。土居利勝晩年の衣冠束帯姿が描かれている。茨城県指定文化財…
 
 「正定寺黒門」の石碑と「旧土井家江戸下屋敷表門」の説明板…もともと東京の本郷にあった旧古河藩主土居家の下屋敷の表門を昭和8年に土居家の菩提寺である正定寺に移築・寄進されたもの。藥医門形式で両側に袖塀がある。・・・等々の説明がある。 
     
 
杉並通り(旧武家屋敷)…正定寺から少し北側に行くと風格ある旧武家屋敷の土塀が続く街並みに。右の写真は左の土塀の一画にあった門。 
 杉並通りから旧日光街道に出る手前に「クランク状」の道路を発見…当時の名残かどうか不明
 日光街道「古河宿」のゆるキャラ?  古河城下本陣址の石碑…
 隆岩寺(岡崎三郎信康(徳川家康嫡男)の供養塔がある)への道標…
 日光街道の宿場町としての古河宿の中心にあった、高札場址の碑。文化4年の古地図には、この高札場と、この向い側に脇本陣が2軒並んで描かれていたとか(右下の説明板参照)… 
     
 江戸初期の古河藩主永井直勝と古賀の街並み整備についての説明板が旧日光街道にあった…
 
アクセス
  • 東北線古河駅西口から徒歩15分
※ 「古河城〜水底に沈んだ名城」をYou Tube に投稿しました 。こちらをクリックして、You Tubeのページにジャンプしてご覧ください!

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