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岸和田城 大阪府岸和田市岸城町 2017.9.25 訪問お知らせ
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~ 築城主:不明(戦国時代末期には松浦氏の居城となっていた) 築城年:16世紀半ば(戦国末期) 主な城主:松浦氏、津田信張・蜂屋頼隆、中村一氏、小出秀政、松平(松井)2代、岡部氏(明治維新まで) 廃城年:明治維新時(1868)年 主な遺構:郭、水堀、石垣など 別名 蟹亀利城・千亀利城 ちきりじょう 続日本100名城 ~ |
- 岸和田城がいつ、誰によって建てられたのか詳しいことはまだわかっていませんが、戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時泉州地域を治めた松浦氏の居城となっていました。織田信長の家臣津田信張・蜂屋頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は家臣中村一氏を岸和田城主とし、紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。一氏は紀州勢の大軍を相手に城を守りぬき、天正13(1585)年、秀吉は岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちして、泉州地域から根来寺勢力を一掃しました。その後、秀吉は叔父の小出秀政を城主とし、秀政は城下町と城郭の整備にかかり、天守閣も秀政によって建てられました。
- 豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏二代をを経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部信勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。江戸時代の岸和田城は、大阪の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。この間、文政10(1827)年、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年、鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建s慣れされ、また昭和44年に城壁と櫓が再建されました。
- 入城時に入手のパンフ「岸和田城」より「岸和田城のあゆみ」部分を抜粋、引用させていただいた。
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南海本線「蛸地蔵」駅…駅舎は大正14年に建てられた。ステンドグラスには蛸地蔵縁起絵巻の一部が刻まれている |
二の丸の岸和田市立市民道場「心技館」と百閒掘を臨む… |
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右上の写真の堀を挟んだ西側の石垣… |
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「模擬天守」を望遠で…現状は三層だが本来は五層の天守閣だった |
右端に、二の丸講演に続く土橋(?)が見える…二の丸と本丸の間の通路を進む… |
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二の丸と本丸の間の通路から、本丸の西側の多聞櫓・隅櫓を見る… |
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「岸和田城絵図」… |
北側の隅櫓越しに石垣及び天守閣を臨む…下の写真で「犬走」が確認できる |
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二の丸広場…旧二の丸部分が公園として整備されている |
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蛸地蔵駅から北側に行き、岸和田だんじり会館の前を通り、二の丸~岸城神社方向へ左回りに進み、岸城神社経由お堀に沿って南側~西側に回った…あいにく訪問時は休館中であったため(右の写真)本丸内部には入れず。お堀越しの写真撮影となった。蛸地蔵駅への帰途、三の丸神社(稲荷)に寄り蛸地蔵駅へ…下の地図に朱色でルートを記した |
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二の丸広場の東端部分に「二の丸多聞」との標示があった…これはトイレであるが |
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本丸の東側の堀を右に見て(左は岸和田高校グランド)南に進む… |
本丸南側から、天守閣・小天守閣を見る… |
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天守閣と小天守閣を見る… |
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岸城(きしき)神社…岸和田城の鎮守社。9がつのまつりではだんじりが宮入りする |
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岸城神社の説明板… |
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本丸の東側、水堀越しに天守閣を見る…この下の写真から右の写真に続く |
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石垣の左寄りの部分に、堀からの階段が見える。その部分を望遠で… |
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本丸の西側部分… |
五風荘(市指定有形文化財)…岸和田の財閥、寺田利吉が旧藩主の新御茶屋跡などに、昭和12年から3年かけて造営した邸宅。現在は”がんこ五風荘” |
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三の丸神社…南北朝時代の創建と伝えられる。第3代藩主の岡部長泰が、民の安泰を祈願するため、元禄16年(1703)、京都の伏見神社から稲荷神を勧請した。(右下の説明板より) |
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はじめ地車祭はこの神社の祭だったと伝えられている… |
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アクセス:南海本線「岸和田」駅或いは「蛸地蔵」駅から徒歩7~10分。
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