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唐津城 佐賀県唐津市東城内 2014.10.14 訪問 |
〜 築城者 寺沢広高 築城年 慶長7年(1602年)…他に慶長7年以前説と天正19年築城説などがある(古文書等が残されておらず不詳) 主な城主 寺沢氏、土居氏、水野氏、小笠原氏 廃城年 1871年 遺構 石垣、堀 再建造物 模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀 別名 舞鶴城 〜 |
- 文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し唐津川と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の」助力を得て築城した。柳川掘、佐賀堀、肥後堀細川忠興は、慶長5年(1600年)関ケ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国2郡を領する30万石(検知高39万9千石)の大名と、薩摩堀など不振に協力した大名の領地名が濠の名に残されている。二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていた。天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたと言われることもあるが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966年)に造られたものである。(資料 ウィキペディアより抜粋・編集)
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城跡入口の案内板地図より。唐津湾に突き出た海城的な唐津城。高島にある宝刀神社は宝くじが当たるとして人気…右の上の写真の高島にある。 |
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天守望楼から、高島方向を見た案内写真。 |
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東側、松浦湾を見る…右の橋は真出橋。文字通りに面した入口…直進して |
西側、早稲田佐賀中学・高校方向を見る…右側の写真は望楼にあった写真 |
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北方を見る… |
南側、町田川と城内橋が見える…右は望楼にあった写真 |
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舞鶴公園入口の案内板より… |
西門側の櫓… |
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上段広場より薄暮時の天守閣… |
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上段広場から見る天守閣… |
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天守閣下び石垣にゆがみ、茶室下の石垣に「はらみ」が見られて、石垣の修復工事中… |
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櫓門(復元)… |
櫓門からの階段・石垣… |
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藤棚の改築工事… |
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櫓門から天守閣下への通路の石垣… |
中段広場から下段に続く階段… |
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左、旧二の丸には早稲田佐賀中学・高校が… |
現早稲田中学・高校(旧二の丸)の石垣… |
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早稲田佐賀中学・高校の入り口…後ろに唐津城天守閣が見える… |
早稲田佐賀の手前の道路より天守閣を見上げる…桜のシーズンにはさぞや。 |
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二の門掘…唐津城の二の丸と三の丸を区画する大事な掘だった。堀の東側中ほどには二の門と呼ばれる門が藩士の出入りを見守っていた。 |
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時の太鼓 4代藩主土井氏の時、この場所に時を告げる鐘が置かれ時刻を告げていた。現在は、午前7時から午後7時まで、1時間おきに中から武家人形と大太鼓が出てくるからくり時計となっている。 |
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二の門堀…説明は右の写真参照 |
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二の門堀と銘記の橋… |
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三の丸辰巳櫓(復元)… |
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虎ノ門口…天守から見て寅の方向にあるのでこの名前が! |
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三の丸辰巳櫓…三の丸南東隅に建てられていた。平成4年に復元されたもの。 |
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市役所の前の通りの肥後堀に残る石垣…ここまで旧三の丸の城域だったのか。 |
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アクセス:JR九州唐津線唐津駅から徒歩約15 〜20分
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※「唐津城ー佐賀県唐津市東城内」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。 |