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深大寺城 東京都調布市深大寺元町 2013.11.8 訪問お知らせ
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~ 築城者 狛江氏 築城年 不詳(鎌倉時代) 主な城主 難波田氏 廃城年 天文6年(1537年) 遺構 曲輪、土塁、空堀 指定文化財 国の史跡 ~ |
南方の野川を水濠、西方を除いた三方を沼地とし、西方に空濠を三段に構えて三郭・二郭・主郭を配した直線連郭式城郭である。主郭は東西50m・南北90mほどで、全周を土塁で囲み、北と南に平虎口を設け、北虎口は土橋を経て二郭に、南虎口は東の腰郭に通じるとともに西の空濠からの侵入に備えている。二郭は東西50m・南北120mほどで、南の土塁中央に平虎口を設け、西の土塁は復元されたものである。三郭は東西100mほどで、宅地化で遺構は失われている。歴史を振り返ると、1524年1月、江戸城を北条氏綱に攻略された扇谷上杉朝興は、巻き返しを図るため、居城の河越城から頻繁に南武蔵に出撃。1530年6月、朝興は深大寺城に北条氏康は多摩川対岸の小沢城に陣を敷き、小沢原で合戦になった。扇谷上杉方としては、北条勢を多摩川で食い止め、かつ江戸城奪還を図るため、1537年4月、13歳で父・朝興の跡を継いだ上杉朝定は難波田弾正弘宗に命じて深大寺城を増築した。しかしながら、同年7月、氏綱は深大寺城を迂回して河越城を直接攻め、朝定が松山城に敗走したため、深大寺城の軍事的価値が失われた。扇谷上杉勢を北に追いやった北条方にとって、多摩川左岸の深大寺城は小田原城の防衛には不要になった。その結果、城が手付かずで残り、城郭史上、貴重な遺構になっている。(資料 ウィキペディアより抜粋・編集) |
深大寺城跡の案内図(現地に設置の案内図より) |
神代植物公園 水生植物園の入口…この公園の中に城跡がある |
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水生植物園の看板がここにも |
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深大寺城そば畑の看板 |
深大寺城そば畑がここに… |
内第二郭 |
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第二郭を別の角度から見る |
第二郭と第一郭の間の空濠 |
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第一郭と第二郭を結ぶ通路に使われていた土手を復元したものとの説明 |
第一郭への土橋上から、
右側の空濠・土塁を見る |
同じく土橋上から(第一郭に向かって)右側の空濠…実際はもっと深かった |
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土橋上から第二郭を臨む |
第一郭に入ったところ
にあった碑(深大寺城跡) |
第一郭内 |
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第一郭内にあった説明版…現在の公園の図面と比較できる、第三郭は今は宅地化されている |
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第一郭の端の土塁を見た後に
一旦先程の説明版のところに戻る |
第一郭内の土塁を見る |
第一郭周囲の土塁 |
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第一郭の土塁、第二郭側 |
虎口がこの変に…? |
これも第二郭側の土塁 |
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空濠の土橋を渡り第二郭に戻る(実際はもっと小さな橋だったらしい) |
掘立柱跡(最初の方の写真参照)の説明 |
第二郭と第一郭の間の土塁・空濠(実際はもっと高く、深かったと思われる) |
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第二郭と第三郭の間の濠、土塁。今でも結構深いが実際はもっと深かったと思われる。 |
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空濠の底に降りて撮影 |
第二郭の端 |
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第二郭の空濠 |
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空濠を見下ろす |
虎口があったところか… |
水生植物園側から
(右手)深大寺城跡を見る |
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植物園途中から城跡側へ少し入る |
水生植物園…右側に城跡が |
水生植物園から
城跡側に入ったところ |
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水生植物園から城跡の森を見る |
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アクセス:京王線布田駅から徒歩20分、JR中央線三鷹・吉祥寺駅からバス15~20分
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