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怡土城(いとじょう) 福岡県糸島市 2014.10.15 訪問

〜 築城者 吉備真備(きびのまきび) 築城年 神護景雲2年(768年) 廃城年 不明 遺構 土塁、望楼跡 指定文化財 史跡(国指定) 〜 
 怡土城は,糸島市と福岡市の境にある高祖山西斜面に築かれた奈良時代の山城です。『続日本紀』には、756(天平勝宝8)年6月から768年(神護景雲)2月まで約12年を要して完成したと記されていて、築城の責任者は太宰の大弐(だざいのだいに)(太宰府長官)であった吉備真備でした。遺構としては、北西尾根線上に5か所、南西尾根線上に1か所の望楼(物見やぐら)跡があり、山裾には南北約2kmにわたって土塁(防御用の堤防。復元高約10m)が走っています。これまでの調査で、部分的にではあるものの土塁の全面にはテラス状の構造が確認され、土塁の外側には幅約15mの堀があったこともわかっています。怡土城の特色の第一点は、正史に築城の担当者とその期間が明確に記載され、遺跡の所在地も確認されていることです。第二点は、築城する際に中国式山城の築城法が採用されていることです。朝鮮式山城は土塁を山の等高線にそって「はちまき」状に築きますが、怡土城は高祖山の急斜面から平地部にかけて「たすき」状に土塁を設けています。この背景には遣唐使として二度にわたって中国に渡り、特に兵法に長じた吉備真備の存在があると考えられます。第三点は、築城のために「防人」までも動員していて(『続日本書紀』)、急を要する事業であったことがうかがわれることです。この築城の目的については、8世紀中ごろに新羅征討がが論じられた際にその一環として築城されたと考える説と、唐で755(天平勝宝7)年に勃発した「安禄山の乱」に備えるためと考える説があります。さらに、海岸部と日向峠(ひなたとうげ)を見渡すことができ、「周船司(すせんじ)」(船を管理する役所;現周船寺)知隣接することからこれらを含めた軍事的構想のもとで築城されたと理解することもできます。その後、中世(戦国時代)の糸島を支配した原田氏は、この場所を再利用して「高祖城」(たかすじょう)を築き、1587(天正15)年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としました。(糸島市教育委員会が平成13年に設置の案内板「国指定史跡 怡土城跡」より)
JR筑肥線 波多江駅…ここからタクシーで 伊都国歴史博物館のところにあった案内板より
     
 博物館に展示の怡土城の地図…
 
 左の建物が「伊都国歴史博物館」、右の山が高祖山で、山裾に土塁などが…  博物館に展示の「怡土城について」…
     
怡土城入口(土塁に上がる手前)にあった説明板。…「怡土城と吉備真備」
 
 怡土城址碑…  土塁の上に上がる… 土塁上から右側、住宅地を見る…
  土塁の上…尾根状になっている
     
アクセス JR筑肥線、周船寺或は波多江駅から徒歩だと1時間はかかる。怡土城の近くの、糸島市立伊都国歴史博物館まで、本数は少ないがバス便はある。筆者は、博物館・平原遺跡と併せてタクシーを利用した。 
 ※「怡土城〜平原遺跡ー福岡県糸島市の史跡を訪ねて」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください
                                              

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