伊勢 亀山城 三重県亀山市本丸町 2017.9.3 訪問お知らせ |
||
~ 築城主:関 実忠 築城年:文永2年(1265) 主な城主:関氏、岡本宋憲、三宅氏、本多俊次、石川氏 廃城年:明治6年(廃藩置県により殆どの建造物は取り壊された) 主な遺構:郭、石垣、多聞櫓、土塁、堀 ~ | ||
|
||
関西本線亀山駅から北方向へ徒歩約20分で亀山城跡へ。右の写真は亀山城へ続く北方向への通路。少しは雰囲気がありますかね… | 「青木門」跡への道標が… | |
亀山宿の標示石… | 旧東海道辺りから見た亀山城多聞櫓…往時は堀を挟んで多聞櫓が見えていた(昭和20年代の写真では堀がはっきりわかる)。 | |
関宿と庄野宿への道標… | ||
本丸多聞櫓…平成19年4月の三重県中部を震源とする震度5強を観測する地震が地震が発生した。この地震により多聞櫓石垣の一部が崩落した。平成23年~24年にかけて修理が行われた。 | 亀山藩主板倉勝澄ー備中松山藩主石川総慶 交替の碑… | |
亀山市教育委員会が設置の、「伊勢国亀山藩主板倉・石川氏の交替」の説明版… | ||
右の写真の本丸への入り口部分から見た多聞櫓…すぐ上の写真とは違う角度(北東側)より見る…一部修理中のようだ | 本丸入口にあたる場所に「亀山城址碑 石碑」 | |
城址碑のある所から南方に旧二ノ丸の亀山西小学校の築地塀に沿って太鼓門方向へ歩く… | ||
亀山城江ヶ室門・神戸櫓跡の標示柱…三の丸から江ヶ室に出る門だった。神戸櫓は伊勢神戸城の櫓を移築したため神戸櫓と呼ばれていた | 「亀山城太鼓門跡」…太鼓門は三の丸から二の丸に通じる門で、隣接する太鼓櫓で太鼓を打ち時刻を知らせたことから太鼓櫓と呼ばれていた | |
亀山城江ヶ室門・神戸櫓跡の標示柱…三の丸から江ヶ室に出る門だった。神戸櫓は 伊勢神戸城の櫓を移築したため神戸櫓と呼ばれていた |
||
亀山城大手門跡の説明版…大手門櫓と大手脇櫓から構成される枡形門だった | 東三の丸 家老名川氏の屋敷跡の碑 | |
大手門・武家屋敷などへの道標… | 本丸内の「亀山城の説明版」にあった縄張図を拝借… | |
多聞櫓を旧本丸に入って仰ぎ見る…野面積の石垣がいいですね! | ||
右上の写真の所からさらに北西方向に進み多聞櫓を見上げる… | 多聞櫓への上がる階段…本丸側から見る | |
亀山城楠門跡…二之丸から本丸に通じる枡形門だった。櫓門は安政元年(1854)の大地震で崩壊した | ||
多聞櫓のすぐ下にあった「与助井戸」…説明は左の写真参照 | ||
「震災復旧としての土居復元」の説明版… | ||
左上の説明版写真にある「土居」復元…発掘調査や江戸時代の絵図などから、この部分が、本来は石垣ではなく土居であったことが分かったとか。右の写真の土居状態の部分に続く | ||
「心形刀流亀山演舞場」裏手の築地塀…矢・鉄砲狭間が見られる | ||
心形刀流演武を見学させてもらった…三重県指定文化財 | 亀山神社… | |
ますみ公園…この右奥に三重櫓跡・二之丸帯曲輪・埋門跡が | 三重櫓跡…右に拡大写真。寛永18年(1641)に城主本多俊次が天守閣の代わりに築いた亀山城で唯一の三層櫓であった | |
この先に「帯曲輪・二之丸広場」との標示… | 本丸北側の水堀…西側の西出丸側はしょうぶ園になっている | |
二之丸帯曲輪… | ||
御殿の庭に作られた小山…古い図面に書かれている場所に発掘調査で出てきた瓦でその位置を示しています | 「二之丸帯曲輪及び周辺整備事業」の説明版…整備事業で城跡の一部を江戸時代末期の状態に復元した(この辺は本来の姿を良好にとどめている)等の説明が | |
亀山城二之丸跡の説明版…城内で最も建造物が多く、御殿のほかに外周には太鼓櫓、神戸櫓などがあった、等々の説明が | ||
二之丸御殿音礎石…右の写真。その説明版の拡大写真は左下に | ||
二之丸御殿の礎石とみられる等の説明が… | ||
埋門形刀流(うすみもん)…二之丸御殿と帯曲輪の間に作られた小型の門であった。半分地下に潜るように作られているので埋門と呼ばれる(右の写真は説明版) | ||
右側に亀山西小学校(旧二ノ丸)… | ||
亀山城関見櫓…西出丸の一角に標示柱が… | 亀山中学校のテニスコート入口辺りに建つ「亀山城西出丸跡」の標示柱… | |
心西出丸を出て、すぐのところに「藩校明倫舎跡」の標示柱… | 関見櫓横に土塁の残存らしい場所が… | |
亀山城黒門跡の標示柱… | ||
アクセス:JR関西本線亀山駅から徒歩約20分 |
※ You Tubeに「伊勢亀山城 三重県亀山氏」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください… |