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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  府内城 大分県大分市荷揚町 2018.12.22 訪問
 〜 築城者 福原直高 築城年 慶長2年(1597年)  主な城主 竹中氏、日根野氏、大久松平家 廃城年 明治5年(1872年) 遺構 石垣、土塀、堀、天守台、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)大分県指定史跡・大分市指定史跡 日本百名城 別名 大分城、荷揚城、白雉城 〜
大分市荷揚町に所在する「府内城」(荷揚城)は、府内藩主の居館及び武家屋敷により構成された、近世城郭の特徴を色濃く残す城です。大分川と住吉川に挟まれ、かつて海辺に面した府内城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶその姿から。「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。府内城は、大友氏が国を去った後、豊後を治めていた早川氏に続き、府内に入った福原直高により、築城が行われ、その後竹中重利により、現在の府内城の形が出来ました。府内城下町も同じ時期に形成され、今の大分市街地のおおよその形は、この頃に作られました。城郭としての特徴は北方を海に、東方に大分川河口が面した、高低差が殆ど無い平坦な城にあります。また、大きく三つの郭と三重の堀からなっていました。明治末頃、三の丸外側と二の丸内側の堀は埋め立てられ、現在では、二の丸と三の丸を区切る堀が残っています。かつては、四重層の天守を持ち、23の櫓と5つの門、3か所のの廊下橋が築かれていましたが、震災などにより失われてしまいました。現存する「宗門櫓(しゅうもんやぐら)」と「人質櫓(ひとじちやぐら)」は、県指定文化財とおり、江戸時代の意匠を今に伝える貴重な文化財といえます。また、堀や塀、石垣も県指定と按っており、それ以外の部分も市指定の史跡として保護され、大分市民の憩いの場となっています。(大分市ホームページより、府内城・概説を引用させていただきました。)
 「着着櫓」…東丸の南西角に位置する。昭和40年(1965)に復元された。  大分駅方面から旧三の丸を経て、昭和通りに来た。…左側に見える天守のような建造物は仮想イルミネーション天守。
 大手門…これも着到櫓同様に昭和40年に復元された。多聞櫓門が正式な名称。
 着到櫓の後方に「大分県共同庁舎」(地上16階、地下2階)が見える…  大手門(多聞櫓門)を内側から撮影…
 大手門入口右側の石垣…
「西の丸隅櫓」…この二重櫓も昭和40年に復元された。 大手門内側から県共同庁舎方向を見る…
     
府内城跡の説明板…陶器で作られている。
 
 日出小学校の敷地に沿っ  「東の丸」の南東隅の「二階櫓」…
 「東の丸」の北東隅の「二階櫓」…
 1743年の大火により焼失した天守は再建されなかった。以後、天守台は残る…  天守台上から、二階櫓を見る…
 庭園を見下ろす…城址公園として整備された。
 
 人質櫓か?後方に松栄神社の赤い鳥居が見える…  西の丸隅櫓(二階櫓)を見る… 
     
平成8年に復元された廊下橋…北の丸(現松栄神社側)と西の丸の間に架かる。床を外して敵の進入を防ぐことができる構造となっている。
 
 天守台より、本丸櫓台を臨む… 松栄神社側(旧山里丸)を見る… 最初に入ってきた大手門が左端に見える…修復中の宗門櫓が右端部分だろう。
     
 かつて西の丸と山里丸(現松栄神社)を結んでいた廊下橋…H8年に復元された。  [人柱お宮」の説明板…築城時の難工事対策として「人柱」を建てることになり、「お宮」が人柱を志願…その後工事は順調になった由。
     
 「お宮を祀った祠」…
 
 人質櫓…宗門櫓と共に残る江戸時代からの建物。現在の櫓は1861年に再建されたもの。実際に人質を収容していたと言われている。
     
 廊下橋を水堀越しに見る…
 
 人質櫓のある本丸下の「武者走り」?右側の石垣は殆ど野面積みのようだ… 人質櫓を見上げる…
     
 松栄神社が右側に見える…
 
 廊下橋…平成8年に復元された。かつては床を外して敵の進入を防ぐことができたとか。 
     
 廊下橋入口…利用時間は9:00〜18:00
 
 本丸櫓台を右に見て、奥に人質櫓を見る…遠くのビルは大分県共同庁舎か。  廊下橋についての説明板…
     
松栄神社本殿…
 
 人質櫓か…  西の丸隅櫓及び右側に見えるのは修理中の宗門櫓… 
     
 西の丸隅櫓を別の角度から…
 
           
アクセスJR日豊本線「大分」駅から徒歩10分

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