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大宝城(だいほうじょう) 茨城県下妻市大宝 2017.1.5 訪問お知らせ
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〜 築城主:下津間盛幹 築城年:應徳3年(1086) 主な城主:下妻氏、多賀谷氏 廃城年:興国4年(1343) 主な遺構:土塁 国指定史跡 〜 |
- 大宝八幡宮御由緒にて大宝城の歴史についても触れられているのでその部分を下記抜粋・引用させていただく。
- 当宮は大宝城の跡で元は鳥羽の淡海に突き出した東西250m 南北500mの丘陵地であり應徳3年下津間盛幹がこの要害の地に築城初代初代城主となる。約百年後4代にして広幹が滅亡
源頼朝は小山朝政の所領として治めさせる 小山氏は代々下津間氏を名乗った。建武の中興の大業も挫折。6代城主政泰の代に南北朝時代となる。政泰は南朝に味方し、春日中将顯時
興良親王を迎え奉り開城の北畠親房と相呼応して義旗を翻したが、戦利あらず落城し廃城となる。
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大宝城駅前にあった観光MAPより…関東鉄道常総線「大宝」駅から徒歩約5分で城跡・大宝八幡宮に |
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大宝駅ホーム…ディーゼル車(ワンマン)が走る |
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雰囲気のある大宝駅舎…SUICA・PASMO使用可能 |
余湖クンのホームページより大宝城概念図を拝借。この図の下(南)の大宝幼稚園側から(旧大手口だろう)城域に入る…大宝八幡神社〜あじさい園に至る南北約600m、東西250mの縄張を南から北方向に歩いた |
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駅から真直ぐ東に進むと民家の一隅に「大宝城址」の石碑が… |
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大宝駅から土塁の残存を左に見つつ南下すると東方向への道路に入る…そこには大土塁がドォーンと眼前に |
城域の西側の土塁を左に見て南下すると左の写真の大土塁へ… |
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左の青い車の端が土塁の端の部分…ここが大手口らしい。大宝八幡宮の石碑と鳥居が |
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上の写真の道路の東端から筑波山を見る… |
上の写真の道路から改めて大土塁を見る…高さは4〜5mはある。基底部は10数メートルはあろう。城域は微高地になっているがいわゆる平城であろう。 |
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大手口を入り、鳥居の両側の土塁を見る… |
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鳥居を入ってすぐ右(東)側を見る…大土塁が続く |
鳥居を入ってすぐ右(東)の広場…この先は小学校の敷地であり遺構らしきものはない |
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鳥居のすぐ横から土塁上に上がるり見下ろす…ここは堀跡ではないのか? |
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大土塁の東側部分を内側から見る… |
土塁上を暫し歩く…歩きやすい |
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土塁の東端にあった三吉稲荷神社の小さな社… |
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大手口鳥居から入ってすぐ左の部分の大土塁… |
東側大土塁から北方へ歩くと大宝小学校が…その手前に土塁の残存のような?(不詳) |
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鳥居からの参道部分に戻る… |
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参道を北方へ歩くと「大宝小学校」の入口に… |
大宝八幡宮への二つ目の鳥居越しに北方を見る… |
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大宝八幡宮の山門… |
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大宝八幡宮の由緒…社伝によれば大宝元年(701)に藤原時忠卿が宇佐八幡宮を勧請したものと言われている等々の説明…本殿(真ん中の写真)の横には「国指定文化財建造物大宝八幡宮本殿」との標記・説明が(右端の写真) |
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大宝城は、下妻政泰が大宝城の城主だった興国2年(1341)東国における南朝方の拠点となりました。北朝方との戦いが繰り広げられ、北朝方の猛攻を受けた末、食糧不足と城内不和のため落城し、城主下妻政泰は討ち死にしたと伝えられています。この下妻政泰を悼んで、大宝八幡宮には「贈正四位下妻政泰忠死の碑」と「下妻政泰公碑」が建立されています。(神社境内の大宝八幡宮の説明板より) |
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上の写真と下の写真は、本殿裏の低くなっているところで…腰郭や土塁が一部残っている |
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少し低くなっている部分を北東方向に進むと、土塁が続いており、虎口と思われる部分(右の写真)に出た。この虎口の両側には高土塁が続いている… |
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東側の低い土塁… |
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「大宝城跡土塁・あじさい神苑」との表示石碑…左手後方の土塁を指すのか(右下の写真の土塁) |
「歴史の散歩道、大宝城のからめ手の土塁が往時のままに残っています」との説明表示が… |
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左の写真の石碑後方の土塁を見る… |
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北西方向の低地部分(右の写真)で、池であったと思われる…この辺が船着き場として機能していたかも?左の写真は、この低地部分から一段上の腰郭的な場所への階段、ここを上がり腰郭方向へ歩く。 |
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上に上がって見ると堀跡らしい地形に出た…実際は分からない |
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アクセス:関東鉄道常総線「大宝」駅下車徒歩5分
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