有賀城 長野県諏訪市豊田字有賀 2014.4.8 訪問お知らせ |
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~ 築城主:有賀次郎 築城年:承久年間(1219~1222年) 主な城主:有賀氏、原氏、千野氏 廃城年:不詳 主な遺構:郭、土塁、堀切、竪堀 ~ | ||
有賀城は、尾根の先端を切り込んで主郭を設け、そこから北と東北に延びる尾根及び、南方尾根続きに対して遺構を展開させている。主郭に相当する曲輪1は、東西約20m、南北約37mの規模を持つほぼ長方形に近い形をした曲輪で、西、南面及び東西の一部に高い土塁が設けられている。特に南面の土塁は主郭を構築する時に地山を削り残して作られたものと思われ、高さが曲輪内から4~5mにも達する規模を持ち、南方尾根続き方面から主郭内を見通されないように配慮されている。この土塁上には秋葉権現の碑が立っており、これらの段もその祭祀の必要上設けられた可能性があり、石垣も城の遺構と即断することは難しい。(現地に設置の説明板「有賀城跡」より)…この説明の横に表示の縄張り図を次に表示 | ||
山頂、主郭にあった説明板に付随の縄張り図。この図面にある、東北尾根から上がってきたようだ。正しくは、江音寺の右側方向の冠木門(県道50号線との間)から入山すべきだろう。 | 江音寺の赤い屋根が見えてきた。墓地の裏から入山を試みる | |
江音寺の墓地の一角。ここの左側から入城…(後で分かったが、城跡南側と県道50号線の間に冠木門があり登山口となっていた。そちらのルートを強く勧める。) | ||
江音寺墓地南東側で登山口を探した結果、登り道らしきところを見つけ、ここから入った。 | 数分歩くと、「有賀城跡」との道標を見つけほっとした… | 少し入ると、非常に規模の大きい谷が見えてきた。どうも、人工の堀ではなさそう… |
谷から、先ずは尾根に上がり主郭を目指そうとしたが、急峻な崖で這うようにして上がった。矢張り、道を間違えたらしいと気付いたが遅かった。暫し、尾根を上り、山頂部を目指すと、若干、開けた場所に出た。「腰曲輪」との標識を発見。そこから、やはり這い上がると、主郭部分に到達。諏訪湖の帳簿が開け、周囲は土塁があった。 | ||
主郭の、諏訪湖に向かって右側に「虎口」との標識。最初の縄張り図の写真の A の場所。 | 左の写真の、左側部分の土塁・石積み | |
土説明版の横にあった「有賀城址」と標高表示の柱。標高925m。 | ||
秋葉権現の碑が立つ、主郭の背後部分。 | 主郭にて、佐上湖方面を背にして、秋葉権現碑方向を見る。 | |
秋葉大権現の碑 | ||
秋葉大権現碑のある場所から、下を見下ろす…堀切りで隔てている。 | 東北尾根方向への通路。 | |
二の曲輪方向への通路を見る | 西側を見下ろす | 主郭との間の堀切 |
右側が主郭 | 堀底から上を見上げる… | |
最初の図面の チ の場所、横堀 | ||
竪堀 図面の ト の場所か | 土塁の標示 主郭のすぐ横の部分 | これも堀切の名残りか |
ここも竪堀… | これらも竪堀だが分かりにくいか… | |
主郭の裏(南側)の石仏があるところ。小高い山の頂上部分。 | 堀切… | |
竪堀 主郭の裏(南側)の場所 | 主郭と二郭の間の大堀切か | |
…ここで「有賀城跡」への標識を見つけた。即ち逆ルートであった。 | 二の曲輪から三の曲輪辺りを通って冠木門方向へ | |
四の曲輪か五の曲輪あたり…明瞭な説明がなく、判別困難であった。 | 「有賀城跡」への標識…冠木門を入ってすぐのところ。本来こちらから入山すべきであったか。 | 主郭方向への道、比較的なだらか… |
冠木門と「有賀城跡」の標識(右に拡大写真) | 県道を挟さんで反対側に垣間見える石積み | |
千野家家老家墓地が江音寺墓地にあった。高島藩初代家老千野頼房は、藩主諏訪頼水の勧めもあって知行所内で廃寺となっていた大安寺を江音寺としてここに再興、千野家の菩提寺とした。 | ||
交通アクセス:JR中央線上諏訪駅から、アルピコ交通バス「有賀・上社統合路線」 赤羽車庫循環で約50分「有賀」下野徒歩約15分 あるいは「かりんちゃんバス」市内循環バスで約50分。 |
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