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湯築城 愛媛県松山市道後公園 2022.9.28 訪問
 〜 築城者 河野通盛 築城年 建武年間(1336〜38) 主な城主 河野氏、小早川氏、福島氏  廃城年 1587年(天正15年)   遺構 土塁、水堀、郭 〜 国の史跡 再建造物 武家屋敷
 中世の伊予で最大の武士団を形成した河野氏は、風早郡河野郷(旧北条市)に発生し、やがて源平の争乱には、河野迪信が平氏討滅戦で大きな功績を立てたので、鎌倉幕府から有力御家人に並ぶ待遇を与えられました。承久の乱では、通信をはじめ河野氏のほとんどが後鳥羽上皇方となり、敗れて没落しましたが、通信の子通久は幕府方に与したため、久米郡石井郷を与えられました。元寇(弘安の役)では、一族あげて九州におもむき活躍し、その恩賞として九州でかなりの領地を与えられ、一族は九州、美濃、信濃、甲斐等諸国に広がりました。南北朝の動乱を戦い抜き、伊予国の守護としての体制をを築き上げると共に、本拠を河野郷から道後湯築城に移し、以後、湯築城は守護所として伊予国支配の中枢となりました。細川氏の介入、長い一族間の内紛を経て戦国期には、室町将軍足利氏との結びつきを保ちながら周防の大内氏、豊後の大友氏、安芸の毛利氏と次々に近隣の有力大名と同盟を結ぶとともに村上氏などの海賊衆を背景として伊予の支配を維持し続けました。道直(弾正少弼)は、娘婿の村上(来島)通康の後ろ盾を得て、家臣団の反乱を克服しました。その頃、湯築城の外堀とみられる堀「温付堀」が築造されています。その後、通宣(右京大夫)の代には、毛利氏の援助をえて土佐一条氏の侵攻を阻止しましたが、最後の当主通直(幼名牛福丸)は、土佐の長曾我部氏との戦いのさなか、全国統一を目指す豊臣秀吉の軍門に降って当城を明け渡し、河野氏の伊予支配に終止符がうたれました。
           (現地湯築城資料館に掲示の案内板『河野氏の歴史』より抜粋、引用させていただきました。)