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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
   松前城 北海道松前郡松前町 2023.5.10 訪問
 ~ 築城者 松前崇広 築城年 1850年 廃城年 1875(明治8年) 遺構 本丸御門 御殿玄関 土塁、石垣、堀など  その他 国指定史跡、日本100名城 ~
福山館の築城当初の構造を知ることができる資料は確認されていませんが、シャクシャインの戦いの翌年・寛文10年(1870)に記された『萩蜂起集書』によれば、本丸、二ノ丸、北の丸を有し、南は海岸部に突出した段丘崖、東は大松前川、西は湯殿沢という自然地形を利用し、要所に土塁・外堀・内堀・板塀が設けられていたとされます。安政元年(1854)に完成した新城福山城は、福山館を改修・補強したもので、南に隣接する重臣の屋敷地を三ノ丸として、北東に隣接する寺町の一部を北郭(北の丸)として取り込み、本丸・二之丸・東郭を有し、西は福山館期とほぼ同じ自然地形を利用したものとなっています。最大に特徴は、海に面した三ノ丸に、外国船打ち払いのための7基の台場を備えていることです。福山城の築城にあたっては、城から北へ約1㎞離れた地点(石切り場地区)で産出する緑色凝灰岩が使用されました。切り出しは夏に行われ、冬に雪車(ソリか)を使って運ばれたと記録されています。なお、「福山秘府」や「松前年々記」といった松前藩側の記録や、紀行文・絵図等には「福山城」・「松という呼称が見られますが、松前藩が幕府へ提出した「系譜之内御尋二付御答書」によれば、「伊豆守慶廣 新二築候旧領陣屋之地名に御座候」とあることから、築城当初の福山館の」正式な位置づけは、城ではなく陣屋(または館)であったと考えられます。
 外国船打ち払いのために築かれた新城福山城は、皮肉にも、明治元年(1868)の函館戦争(戊辰戦争の局地戦)という内乱で、徳川脱走軍の手により陥落し、翌年、官軍に二より奪回されました。明治6年(1873)1月の廃城令を受けて開拓使へ移管された福山城は、明治8年(1875)までに三重御櫓・本丸御門及び東堀・本丸表御殿を除く城内の建物が解体され。堀が埋められ、石垣が取り壊され、遂に廃城となりました。
松前城資料館に城館時入手のパンフレットに記載の「史跡 松前氏城跡 福山城跡の概要」より抜粋・引用させていただきました。