日本三大山城 日本三大山城とは美濃岩村城、大和高取城、備中松山城をさす | ||
美濃岩村城 | 岐阜県岩村町 | 木曽山脈の懐に抱かれた高原盆地にあり、標高721mの全国で最も高いところに天然の峻険な地形を利用して築城された。 中世から近世まで683年間連綿として続いた長い歴史を持つ名城。1185年源頼朝の重心「加藤景簾がこのの地頭に補せられ創築されてから。鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸の300年間に亘り城と城主が連綿と続き、明治にいたり廃城令で廃城されるまで連綿と存続した。(岩村町HPより抜粋・編集) |
大和高取城 | 奈良県高取町 | 高取城は奈良盆地と吉野地方の間に連なる山塊中の高峰にあり、近世の山城としては非常に高い標高583.9m、比高350mのの山上に位置している。大和高取城は南朝の雄、越智那澄が高取貝吹山に築城したのがルーツとされる。 曲輪の連なった連郭式の山城で、場内の面積は約10,000u、城郭全体では約60,000u、周囲約30`に及ぶ日本国内では最大規模の山城。 1615年の一国1城令の際も重要な山城として破却を免れた。主な城主は越智氏、 筒井氏、本多氏、植村氏。廃城は明治6年(1873年)。 |
備中松山城 | 岡山県高梁市 | 備中松山城は秋葉重信が1240年頃、吉備高原の峰の臥牛山大松山(480m)に砦を築いたのが最初と言われている。後に1331年頃、高橋宗康が小松山(430m)まで拡張した。城主は時代とともに上野氏、庄氏、三村氏と変わる。1574年、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて三村氏と毛利氏の争いが続く。 城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。この後、毛利氏の領有となった。関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につちえ敗れたのちに徳川幕府が城番として小堀氏を置いた。 |
※ リンクを張っている城は訪問し写真撮影した城。 |