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鳥羽城 三重県鳥羽市鳥羽3丁目 2017.9.2  訪問お知らせ

  〜 築城主:九鬼嘉隆 築城年:文禄3年(1594) 主な城主:九鬼家、内藤家、土井利益、松平家、板倉家、稲垣家(廃藩置県まで) 廃城年:明治4年(廃藩置県により鳥羽城の御殿・櫓・門等の撤去が始まる) 主な遺構:郭、石垣 〜
九鬼氏の時代:九鬼嘉隆が鳥羽城を築城したのは、文禄3(1594)年とされていますが、九鬼氏の時代の城の様子は不明な点が多く、この時に天守閣も建てられたのかどうかなど詳しいことはわかっていません。しかし、現在の本丸石垣などは野面積みであることなどから、九鬼家の段階にはある程度の城郭は整備されていたと考えられます。
九鬼氏以降の城主:九鬼氏が国替えによって鳥羽を離れた寛永10(1633)年には、譜代大名であった内藤忠重が城主となり、鳥羽城の二ノ丸、三ノ丸を構え、西念寺を藤之郷(鳥羽4丁目)に移すなど近世城郭として整備したとされています。以後幕末まで、鳥羽城の姿は内藤氏による整備から大きく変わりませんでした。その後、内藤氏は3代続き、殺傷事件により領地没収となり、江戸幕府の直轄領を経て土井、松平(大給)、板倉、松平(戸田)と短期間に城主が替わり、稲垣氏が城主となります。その間に鳥羽城は幾度となく災害に見舞われています。宝栄4(1707)年には大地震による津波によって屋敷や櫓が流失し、石垣や城壁が大破したとされ、その後も、寛政4(1792)年や安政元(1854)年の暴風雨や津波により被害がでたことが分かっています。
明治以降の鳥羽城:明治の廃藩置県により、建物は「無用の長物」とされて取り壊され、堀は埋め立てられ、跡地には旧鳥羽小学校、旧鳥羽幼稚園、鳥羽市役所、市民文化会館が建設されました。ここの三ノ丸跡も、造船所が出来たため、城の遺構は殆ど残っていませんが、城跡の山側には、城があった当時の地形が概ね残っており、城周辺にある寺の多くは江戸時代から存在したもので、城下町の面影が偲ばれます。
三ノ丸広場に設置の案内板「鳥羽城の歴史」より
この案内図の下のほうの、鳥羽市役所辺りから登城…家老屋敷跡→城山公園を経て本丸跡・天守跡へ。最後に、三ノ丸広場を見て帰途に就いた。現状では、コンパクトにまとまっており短時間で回れる。  家老屋敷跡の横の階段を上がる…
      
 階段を上がりきった場所…幼稚園にでも使っていたようだ
 
 家老屋敷跡からさらに階段を上がり、振り返ってみたのが真ん中の写真。そして右端の写真で本丸との分岐案内表示…
突き当りを左に行く…左端の案内板にて「鳥羽城本丸跡」。右の写真は、左の写真の場所に出る手前、ミキモト真珠島や答志島が見える場所。
     
 本丸跡への道標…
 
大手門が海側に突出して作られ、二ノ丸、三ノ丸を経由して本丸に至る構造。この写真の真下のところが三ノ丸であり。本丸への通路との間は帯郭状になっている。  三ノ丸を見下ろす…
  
 本丸周囲の石垣…野面積、乱積み?のようだ。
 
 すぐ上の写真の帯郭的なところを別のアングルより見る…  途この上が本丸跡…
     
 右の写真に続く本丸広場への通路の石垣…
 
 天守跡…説明版によれば、三重天守で望楼型であったとのこと  本丸跡の説明版…天守と本丸御殿があった。また、平成21年まで旧鳥羽小学校の運動場として活用されていた。
     
 本丸跡から見た鳥羽湾の説明版…すぐ下の写真のようであったか
 
 平成23年の発掘調査結果御殿の一部とみられる石列が発見されている… 本丸の北東端から見た鳥羽湾…
     
 鳥羽城の大井戸跡…
 
 本丸の裏側(海側の反対側)の石垣…   本丸の南賀の旧鳥羽小学校の裏側に降りる階段…
     
 奥に見えるのは旧鳥羽小学校…
 
 すぐ上の写真の石垣に続く場所…  家老屋敷跡の横の階段を下りて、下の市役所の裏側(駐車場側)の石垣… 
     
 石垣の途中に「牢屋跡場所」との表示があった…
 
 本丸の石垣についての説明版…関ケ原以前の石垣が確認されている。即ち九鬼嘉隆時代の石垣が残っていると推定されている(説明版より)。右の写真は旧城域に建つ市役所   三ノ丸広場の入り口…
     
アクセス近鉄鳥羽駅亜kら徒歩約10分。
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