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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城 
館林城 群馬県館林市城町   2016.6.25 訪問
 〜 築城者 赤井照光? 築城年 享禄3年(1530年) 主な城主 赤井氏、上杉氏、武田氏、北条氏、榊原氏、松平(大給)氏、徳川氏、太田氏、秋元氏など 廃城年 1869(明治2年) 遺構 郭、土塁、水堀、石垣 現状 館林市役所等 史跡指定 館林市指定史跡 〜
  館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、総曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を設置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相俟って広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は、現在まで発見されていない。現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が5代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を努めた七家の居城として栄えた。城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており三の丸には土橋門が復元されている。土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果を元に復原したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。(館林市教育委員会が土橋門の側に設置の案内板「館林市指定史跡 館林城跡」より)
 尾曳稲荷神社近くにあった案内図…館林駅から”館林・城下町古地図散歩”《歴史の小径》に入り、「鷹匠町長屋門」や「鷹匠町武家屋敷 武鷹館(ぶようかん)」などを見て、館林城跡へ…
 
 東武伊勢崎線「館林」駅…駅前には茂林寺の狸像(文福茶釜で有名)のほか暑さを示す標示板とミストシャワー施設があった。  館林城土橋門…館林城三の丸に入る二つの門のうちのひとつで、門の前の堀に土橋が掛かっていたことからこの名がついたとされる。現在の門は1983年(昭和58年)に復元されたもの。
  
 土橋門の周囲の土塁と筑地塀の名残…きれいに整備されている
 
土橋門を入り、扉を振り向き見る…横の通用門から出入りする。  門を潜るとすぐ前に井戸跡らしい場所がありその右には土塁と筑地塀が復元されている…右の土塁が冒頭説明の蔀土居に相当する部分か?
 門を入り三の丸広場に進むと、館林城跡の標示柱が…手前の石は発掘調査で出土したものだろう  門を入ってすぐ右(西)方向を見る…筑地塀には狭間が見られる
    
 更に西南側の土塁…これらも当時の土塁が残っていると思われる
 
 この土塁もそうですね、当時の面影がありました…  北側の土塁を見る…奥に土橋門と筑地塀が見える
     
 三の丸広場的なところを見る…
 
三の丸の全景…郭の周囲に土塁の残存が伺える  二の丸〜本丸の場所を探していると「館林城跡」の石柱が、館林文化センター・市立図書館の標示の横にあった…
  
 文化会館(旧三の丸の一部)から市役所(旧二の丸)方向へ行く途中の削平地的なところだが城跡の遺構ではないかも…
 本丸南側の土塁…この向こうに本丸が位置し、徳川綱吉の時代の絵図では、そこに三重の櫓(天守)が描かれているとのこと。とその周囲に残る土塁…結構な高さである
     
 本丸南側土塁の南側は御厩郭(南郭との表示もある)と思われる…
 
 その本丸南側土塁の上に上がって西方を見る…左が御厩郭(南郭)側  「館林城本丸土塁および八幡宮」の説明板…”館林城に関わる遺構として、大変貴重なもの”とのこと
     
 本丸の東にある八幡宮のとこにあった「館林城溝城遺構」への道標…
 
 館林城溝状遺構(移設復原)と群馬の池についての説明板…  写真の上部の池が明治時代にこの地に建設された「群馬の池」(群馬県の形をした池)を修復したものとか…
     
 右の写真の溝状遺構の続きで南方へ続いているもの…
 
 八幡宮…この八幡宮は、江戸時代に武家の守り神として、また、城の守護神として、館林城の「八幡郭」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたもの…明治になって廃藩と共に尾曳神社に合祀されたが、明治の終わり頃にこの地に移され、再び八幡宮として奉斎された、との説明が(右の写真)
     
 改めて本丸南側の土塁…この石垣は後世のものかも?
 
 秋元神社…八幡神社から旧秋元別邸方向へ行く途中にあった小さな社  これらの墓石群は、館林城本丸や三の丸土塁から別々に出土した五輪塔などの墓石を組み合わせ1973年に墓域として整備したものとか…左下の説明板参照
     
 館林城出土墓石群(館林市重要文化財)の説明板…
 
 尾曳稲荷神社…天文元年(1532)赤井照光が築城の際に、城の東北隅(鬼門)に守護神として創建した…
     
「尾曳稲荷神社創建と由来」の案内板…
 
 ここで、城下町の一部を紹介…「鷹匠町長屋門」。江戸時代鷹匠が住んだことから「鷹匠町」と呼ばれ、武家屋敷が並んでいた。この長屋門は豪農松澤家の門を平成21年に移築・復元したものとか
     
 本紺屋町…この通りに面して紺屋があったことから紺屋町と呼ばれたとのこと
 
 鷹匠町武家屋敷「武鷹館(ぶようかん)」長屋門…鷹匠町に残っていた長屋門と附属住宅を修復するとともに、茅葺屋根の「旧舘林藩士住宅」を移築し、平成16年に武鷹館の愛称で公開された(右に現地に設置の案内板) 
     
 館林藩の中級武士の住宅…江戸時代後期のものか?
 
アクセス:東武伊勢崎線「館林」下車徒歩約15分…
※ You Tubeに「館林城ー群馬県館林市」を投稿しています。ここをクリックして、You Tube のページへジャンプして、ご覧ください…

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