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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

武田信義館 山梨県韮崎市神山町武田  2018.4.4 訪問お知らせ

 ~ 築城主:武田氏?(武田信義?) 築城年:不明(12世紀末ごろ?)  主な城主:武田氏 主な遺構:土塁 韮崎市指定史跡 ~

 武田の里は甲斐源氏惣領武田氏発祥の地である。今を去る八百余年の昔、源信義がここに居館を構えて武田太郎と号し、甲斐源氏一族を率いて強大な武力を誇った。治承4(1180)年高倉宮以仁王の令旨を奉じて平家討滅の兵を起こし、信濃・駿河に転戦して武功をたて、駿河守護に補せられたが、やがて源頼朝の排斥に会い、文治2(1186)年病没したとされる[享年59歳]。
 しかし、建久元(1190)年頼朝上洛の隋兵の中に信義の名があり、同5(1194)年の東大寺造営や小笠懸(こがさがけ)の射手にも信義の名がみられることから、文治2年以降も生存していた可能性がある。墓は鳳凰山願成寺にある。

信義の館跡は武田区の東端を占め、およそ250メートル平方の地で、今は民家・耕地が入りまじっているが、当時を偲ぶにたる土塁の一部は現存し、お屋敷・お庭・お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・今浄水・具足沢などの地名を伝えている。平成20(2008)年には館跡推定地の東部の発掘調査により、水晶・中国産陶磁器などが出土した。(韮崎市教育委員会が現地に設置の案内板「韮崎市指定史跡 武田信義館跡」より
。下の地図、神山町付近の名所・旧跡分布図もこの案内板より抜粋した。…白山城、武田氏館跡周辺、信義の墓・願成寺を赤丸にて示した。))

 
 上の地図の、ワニ塚の桜を見てから徒歩にて、諏訪神社・泉勝院を経て暫く歩くと、「武田信義館」への標示版(左の写真)が見えてきて、すぐ田圃の中に「武田信義館跡」(右下の写真)が見えてきた…
    
 「武田信義館跡」の標示柱…
武田氏屋敷跡敷地内にあった案内板。冒頭の説明文と地図はここから引用させてもらった。  案内板にあった「土塁の一部現存…」との土塁を探した。これがその残存か?…不詳  少し歩いて、願成寺へ…裏参道入口から入ることになった。
     
中央塔が信義公、向かって左が夫人、右が乳母姫(13代武田信昌の息女で当山に隠棲して終わる)の墓塔と伝えられる。…左に見える説明板より抜粋。   武田信義の墓の標示柱を見て、墓地内部に入る…左の写真に続く。
     
 境内に韮崎市が設置の、「武田信義について」と題した説明板が…
 
上の写真の、五輪塔の3体部分をズームで撮影… 神社境内の桜がきれいだった…後方に見えるのは「武田家累代御霊殿」  
「始祖武田信義公墓塔」願成寺の五輪塔 説明板…
御霊殿の隣に見事な桜が…訪問時は桜の見ごろでした。ソメイヨシノではなく”コヒガン何とか?” 武田家累代御霊殿…平成元年建立 
 
武田家累代の名前が…
 
 願成寺の説明板…宝亀2(771)年開創とか。武田信義が、武田の荘に館を営み、この寺を祈願寺として中興す。(説明板より)   武田氏家臣招魂の碑…
     
願成寺山門…寛文2年(1662年)建立されたが1864年の大暴風雨の際倒壊した。平成2年に再建されたとのこと。
 
おまけに「わに塚の桜」を紹介…日本武尊の王子武田王がこの地域を治めた後、埋葬された場所なので「王仁塚」と呼ぶようになったとの言い伝えもある由。桜は推定樹齢300年。樹高17mのエドヒガンサクラで市の指定天然記念物。  
   
 アクセス:JR中央線「韮崎」駅からタクシーが無難(韮崎市民バス「御堂住宅」下車、徒歩約15分)
※ You Tubeに「武田信義館跡~武田家墓地~エドヒガンサクラ 山梨県韮崎市」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください…!
 

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