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高天神城  静岡県掛川市上土方 2016.3.15 訪問お知らせ

 ~ 築城者 今川氏? 築城年 16世紀初め(永正10年、1513頃今川氏親の重臣福島正成が入城していることは確認されている) 主な城主 福島氏、小笠原氏、岡部氏 廃城年 天正9年(1581年) 遺構 曲輪、土塁、堀切 ~
 高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。元亀2年(1571)には、武田信玄が徳川方となった高天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行われませんでした。天正2年(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原長忠(氏助)は1か月程の籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っています。その後、武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることになります。天正3年(1575)5月の長篠の戦い以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。(追手門口及び搦手口に設置の案内板より)

<以下は、本丸跡にあった説明板より…武田vs徳川の攻防の様子>
 元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠2千騎を以て籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下500騎と遊軍170騎が詰めた。
 天正2年5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵1千騎を率いて入城した。
 天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守眞幸(元信)城代として1千騎を率いて入城した。
 天正9年3月徳川家康来攻包囲10か月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部眞幸、軍監江馬直盛以下残兵800、二手に分かれて城外に総突し激斗全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元泰誅せられた。城郭焼滅廃城となる。
JR掛川駅北口3番乗場(中央の写真)から、掛川大東浜岡線「浜岡営業所」行き、又は大東支所行のバスで「土方(ひじかた)」下車、乗車時間約25分。土方バス停から追手門入口(右端の写真)まで歩いて、そこから城跡まで約15分位
        
 追手門入口で右折して高天神城跡を目指す…写真のように要所要所に案内標示があり迷うことはなかった
     
 県立自然公園 高天神城跡の標示柱のある広場に到着。ここから登山開始… 高天神城想像図…これだけ見るとかなり険しいようだが?!現在地のところから追手門→着到櫓跡→三の丸→御前曲輪→本丸→的場曲輪→井戸曲輪→二の丸→馬場を経て搦手門から帰途についた
     
入口にあった鳥居…ここから、先ずは追手門へ歩く
 
 井戸曲輪のところにあった「高天神城跡略図」…登城ルートはオレンジ色の線で記した。井戸曲輪を堺にして東峰と西峰に大きく分かれている。いわゆる一城別郭と称される。高天神城の特徴でもある。
    
 町指定天然記念物「高天神追手門跡スギ」…  追手門手前にあった「高天神城跡」の木柱碑…
  
 追手門の側にあった、武田軍 vs 徳川軍の攻防の様子が記されている…
 
 追手門…階段を曲げて造られている…どんな門があったのか? 右の写真は階段を上がって振り返ったところ
     
少し歩くと「着到櫓跡」に到着…
 
着到櫓跡から、更に、少し階段を上がり三の丸方面を目指す… 着到櫓跡…この辺の位置を縄張図より確認できます、ここをクリックすると、縄張り図上での現在地を表示します。
      
着到櫓跡から三の丸方向へ…
 
この階段を上がって、本丸方向ではなく三の丸へ進む…三の丸には休憩所があり見晴らしもいいですね!
     
三の丸跡…右の写真は三の丸より北側を見下ろしたもの
     
 武田軍が来攻時、大将として守備した小笠原与左衛門の名前から、別名「与左衛門平」と言うとのこと…案内板
 
 三の丸周囲の土塁…この先は断崖絶壁であり、この土塁で防御したことがあったのか?  本丸に続く山道…道路上に見えるパイプは、本丸の水道蛇口への給水タンクに続くようだ 
     
 上の写真から少し西方向に行くとこの看板が出て来て、本丸方向へ山道を歩く(右の写真)…
 
 本丸跡の手前のところに着いた…「本丸址 この道を上がる」との標示 元天神社…西の丸の天神社の前身?
   
御前曲輪跡…
元天神社への鳥居と社… 御前曲輪から北側を見る…茶畑が整然と!
  
 本丸跡の手前にあった「松幹化石」…説明板がなく、何が化石かも分からず…
 
 本丸跡に到着…ここにも 武田 vs 徳川の攻防の経緯が記されている!右の写真は「高天神城址」碑 縄張図はこちら
     
 本丸跡の木柱…「勝頼が高天神城を攻めた時は本曲輪と呼ばれていたと思われる」との説明が…
 
こちらは、南側の土塁…そこから見下ろしたのが下の写真 本丸北側の土塁跡…この先は凄い断崖だけど
     
 この土塁の下は腰曲輪になっているようだ…
 
 本丸のすぐ下(西側)の的場曲輪跡… 本丸跡の全体を見る…白く見える木柱は少し前にあった本丸城址の碑
     
「大河内政局石牢道入口」の標示柱…
 
大河内政局石屈…説明板は右の写真参照
  
 先ずは元天神社への階段…奥に狛犬が見える
 
 井戸曲輪跡… 左上の写真の階段を上がり、狛犬(?)奥に進むと井戸曲輪に入る。ここにあるのも狛犬か?
     
その、狛犬(?)を横から…
 
 今度は、顔を正面から… 現在地のところにあった「攻防城砦図」…主な関連の城群を朱色で囲んだ 
     
 尾白稲荷大神…
 
二の丸、本間丸尾兄弟墓碑等への道標…   ここは急峻な崖となっている…   階段を上がって二の丸へ…上がってから振り返り見る
     
 神社本殿の横から馬場方向へ歩くと、凄い堀切が…   上の写真の階段を上がってすぐ左に堀切が…
     
二の丸に到着…本殿まで、更に階段を上がる 
 
 堀切…  馬場平…御前崎方向を見る  この辺の縄張図での位置は こちら から 
     
 切割り…堀切と同じことですね
 
甚五郎抜け道…「天正9年3月の落城の時、軍監横田甚五郎は本国の武田勝頼に報告するため、是より西方約千メートルの尾根続きの険路を辿って脱出し、甲州へ抜けた」との説明板があった。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言うとのこと。右の写真はこの抜け道を少し降りたところ 別の角度から馬場平を見る…
       
 搦手門方向への道を見下ろす…帰途は搦手口から  追手門口からよりは、こちらの方が歩きやすい。この入口にも高天神城跡の石碑…
     
 搦手門址…ここと追手門口の両方で杖が借りられる  バス停から見えた「千人塚」…天正9年、落城の際に徳川勢に打って出て討死した多くの武田勢を埋葬した塚
     
 バス停の隣の交差点…ここに高天神城搦手門入口の標示が見られる
 
アクセス:JR東海 東海道本線・天竜浜名湖鉄道 掛川駅からしずてつジャストライン バス 掛川大東浜岡線「浜岡営業所」行き又は「大東支所」行きで「土方(ひじかた)下車、徒歩約15分で「追手門口」 
               
※ You Tubeに「高天神城ー静岡県掛川市」を投稿しています。こちらからジャンプしてご覧ください。 

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