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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  高岡城 富山県高岡市古城 2014.11.21 訪問  2022.11.18 再訪
 〜 築城者 前田利長 築城年 慶長14年(1609) 主な城主 前田利長 廃城年 元和元年(1615年) 遺構 石垣、堀 指定文化財 国の指定史跡 日本100名城 日本さくら名所100選〜
慶長14年(1609)、前田利長は大火に見舞われた富山城に代わり、加賀・能登・越中の中心に位置する関野の地に居城と城下町を移し、高岡城と命名しました。縄張りを担当したのは、築城の名手と謳われた高山右近と伝えられています。慶長19年(1614)、利長が死去し、次いで大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、幕府の一国一城令により高岡城は廃城となりました。しかし3代利常をはじめ歴代の藩主は、城址を高岡町奉行の管理下において、米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堀を残す措置をとりました。明治3年(1870)、金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に払い下げる決定をし、明治5年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水堀を除く31,066坪を民間に払い下げる決定をしました。これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについて高岡町民は反対の意思を示し、当時の第17大区区長(現在の高岡市長に相当)服部嘉十郎ら高岡町民有志による公園指定請願運動が起こりました。明治6年(1873)の公園条例(太政官布告)、翌年の射水神社の遷座もこの運動を後押しするものとなり、明治8年(1875)7月に「高岡公園」として指定され、今日の高岡古城公園が誕生しました。高岡城は、日本の築城技術が高度に発達した慶長期の縄張りを完全な形で残しており、近世初頭の城郭構造を知るうえで貴重な遺構として全国石られています。二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。石には岩を断ち切る際にクサビを打ち込んだ「矢穴」のほか、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることができます。(公園内に設置の案内板「高岡古城公園のご案内」より抜粋・編集)
JR高岡駅から北に約10分、高岡大仏の横を通り駐春橋に…  駐春橋上から右側の堀を見る…  護国神社を右に見て射水神社方向へ…
   橋を渡ったところにあった案内板より…
    
鍛冶丸・博物館方向は後にして、先ずはすぐ先の石垣を見ることにした…   二の丸と本丸の間の土橋上から、左側(北東側)と右側(右端の写真)を見る…
「高岡城跡石垣」の説明板…  橋を渡り、左側の堀底方面に降りると、すぐ左に当時の石垣が見えてきた… 
 城内で唯一残る石垣は本丸と二の丸を結ぶ土橋の両側に見られる。天下普請でもないのに、約60種類ほどの刻印が確認されている由…左端の写真はその刻印のアップ!
     
 
堀底から、乱積みと呼ばれる石垣の素朴な表情が…雰囲気がありますね!   本丸広場…
 
この周辺の13個の石は平成16年にときわ橋付近の川床から引き揚げられた。明治8年ごろ和田川の護岸工事のため高岡城跡から運び出されたとの記録があり…
 
前田利家の長男で、加賀藩120万石の初代藩主前田利長公の銅像…   
  
  大手口を入ったすぐのところの鍛冶丸に高岡市立博物館があった… 本丸広場から「本丸之井戸」に行く途中の紅葉… 
       
 本丸之井戸… 本丸之井戸から射水神社方向へ戻る…途中の紅葉がきれいだった
 
 射水神社…越中総鎮守として二上山の麓にあったものを、1875年に高岡城本丸跡に遷座された。現在の社殿は明治35年に再建されたものという。
 二の丸と本丸の間の土橋の石垣を、鍛冶丸がわ(南東)から見る…右の写真は石垣部分をアップ!
      
 こ民部の井戸…三の丸の今枝民部屋敷の横にある。深さ約8mの井戸。
 
 民部の井戸のすぐ左の堀(本丸と三の丸の間の)を見る… 
 
 搦手口に出て、左三の丸の堀を見る こちらは右側の堀で、明丸(動物園側)を右に見る…
      
 高岡工場公園の石碑…
 
アクセスJR北陸本線 高岡駅から、徒歩約10分ぐらい。
 ※「高岡城ー近世初頭の城郭構造を知る貴重な遺構」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。

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