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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

白石城 宮城県白石市大手町 2017.6.12 訪問知らせ


 〜 築城主:刈田経基(かったつねもと)蒲生郷成(がもうさとしげ) 築城年:寛治5年(1091…刈田経基 ) 天正19年(1591…蒲生郷成) 主な城主:刈田氏、白石氏、蒲生郷成、石川氏、甘糟景継、片倉小十郎 廃城年:明治7年(1874)主な遺構:石垣、土塁、移築門、木造復元三重櫓 別名:益(枡)岡城 続日本100名城 
天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、黒川城(現在の会津若松城)とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。慶長5年(1600)関ケ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。
白石城は標高76メートルの最頂部には本丸・二之丸・中ノ丸・西曲輪。中段には沼ノ丸・、南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館掘り川を隔てた平地に三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓・巽櫓・坤櫓・大手門・裏御門を備え御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張りであった。
元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。
三階櫓入場時に入手のパンフ「伊達の重臣片倉の城白石城」から、「激動の歴史の中を歩みつづけた白石城」より引用)
 JR東北本線「白石」駅…ここから徒歩約10分 白石駅から真っすぐ西に行くと白石城。市内には幾つかの白石城・片倉氏ゆかりの寺があり、それらを見ながら城跡に向かった…下の図面に緑・朱色にて訪問先を記した。
      
 富信寺に移築された「白石城東口門」(正式には「二ノ丸大手二ノ門」)…ここには阿梅(真田幸村の娘)と大八(幸村の次男)の墓がある。幸村は落城前夜自らの死を覚悟して、敵将である片倉小十郎重長を知勇兼備の将と見込み、子女たちの後事を託した、とのこと。
     
富信寺の本堂の横の墓地に、下の写真の阿梅と大八の墓があった…
 
 阿梅と大八の墓の説明版…片倉家の菩提寺は傑山寺だが、西国生まれの阿梅は西国人も通るであろう街道近くに埋葬してほしいと遺言したとか  左が阿梅の墓、右側が大八の墓…阿梅の墓は、その形が歯痛のため頬を押さえているように見えるとして、虫歯に苦しむ人たちがこの墓石を削って飲むとよく効くとの迷信が生まれたため中央部がくぼんでいるとのこと…
     
 真田家先祖代々…などを記して花が挿されていた
 
 傑山寺…片倉小十郎が慶長13年片倉家の菩提寺として創建。初代景綱と2代重長はここに葬られていたが、3代景長が廟所を愛宕山に定めて改装。景綱の墓は一本杉を墓標にしたと伝えられていて、今も成長を続けている。また平成24年に景綱公の銅像が文化勲章受章者 中村晋也氏の作により建立された(下の写真参照)。 
     
 これが一本杉…白石市指定天然記念物
 
 傑山寺の11代藩主以降、及び歴代の奥方がここに葬られている…右の写真の入り口を入って、正面辺りが左上の写真、そこから、右側を見たのが左下の写真 
     
 
 真田家遺臣が開基といわれる「生林寺」、この寺の寺紋は真田家の「六文連銭」です。右上の写真に「真田幸村ゆかりの寺」として詳しい説明が… 
     
 上の案内版から真田幸村とのゆかりについての説明を抜粋・拡大した…
 
 常林寺…ここには白石城旧二の丸の東北隅にあった「時の太鼓」を保管している由。白石山常林寺は時宗で、正中2年(1325)、鎌倉藤沢の清浄光寺の第五世、安国上人の開基で、片倉小十郎景綱時代に現在地に移ったとされている。
     
 「白石城の時の太鼓」の説明版…
 
 常林寺を出て北方向へ少し歩くと、真ん中の写真の道標が見えてきて、右端の写真の緩い上り坂(この場所が旧東口門…正式には「二ノ丸大手二の門」と言う)へ…この突き当りに「白石城歴史探訪ミュージアム」、すぐ下の写真に続く。
     
 右の写真のそばにあった案内図…大手一ノ御門などの位置がわかる 左の写真のBあたりの登坂…
     
「井戸屋形(復元)」…このすぐ左に三重櫓
 本丸大手一の御門…二の門とともに枡形構造と細長い通路を持つ  大手二の御門…平成7年(1995年)に三階櫓と一緒に復元された。 
   
上の写真の一の御門を入って、大手二の御門(右の写真)に向かう…
三重櫓…1823年(文政6年)に再建されたものをもとに、平成7年(1995)3月に木造復元された。最上階の「廻縁・高欄」、「華頭窓」が、また一番下の階(一重部分)には切妻出窓が。櫓台の石垣は野面積のようだ!
  
 本丸御殿跡の標示柱…
 
 本丸御殿の「御成御殿」、「表御殿」奥向御殿」についての説明版…   鐘楼と鐘(右の写真)とその案内板左下の写真)…
     
本丸御殿跡の南面の土塁… 裏御門跡…この先は県立白石高校旧校地(男子校)。2010年に白石女子高校と統合・共学化され、西400Mのところに移転した由。
     
 これも本丸御殿跡の周囲の土塁…
 
 白石城の石碑越しに三重櫓を臨む… 三重櫓内部…2階部分か
     
 2階部分から北側の神明社方向を臨む…
 
最上層階から華頭窓越しに白石市内を臨む… 
     
東方向、歴史探訪ミュージアム方向を見る…
 
 三重櫓最上階から眼下に、南方向に本丸御殿跡を見下ろす…左端の建造物は片倉景綱の頌徳碑  三重櫓の3階部分より、大手一御門と大手二御門を見る…
   
遠くに白石蔵王駅舎が見える…
 
神明社への入り口となっている「厩口門跡」、本丸を守る重要な拠点の一つだった。明治維新後、延命寺山門として移築された…  武家屋敷…片倉家中旧小関家屋敷・表門、1730年(享保15)建築のものを、平成3年に市に寄贈された機会に、全面解体及び調査を行ってから復元された。宮城県指定文化財。この地区(後小路)は白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した街並みで、今も静かな住宅街 
     
 小関家周囲の掘割…
 
旧厩口門(現延命寺山門)…移築された際に、窓や屋根の形は寺の雰囲気に合わせて改造したようだ。高さも少し低くなっているとのこと。   県道113号線との角に案内表示が…
     
 延命寺のの説明版…厩口門の説明も
 
 〜おまけ その他の、白石市や白石城に関連の情報〜 
 ”真田信繁ゆかりの地”として阿梅・大八のエピソードが…白石蔵王駅の観光案内施設の掲示より ”白石 女敵討”…父親を剣道指南浪人に切られた2人の娘は、鎖鎌と薙刀の修業を重ねて、見事、敵討ちを成し遂げたとして義太夫狂言などで演じられた。白石蔵王駅の観光案内施設の掲示より
”白石温麺(うーめん)”今から400年ほど前に、胃を病んだ麺好きの父のために油を一切使わない製法を学び、父に勧めたところ胃病が回復に向かったとのこと。これを聞いた時の殿様が「温麺」と名付けたとか…
     
 アクセス:JR東北本線「白石」駅から徒歩10分…

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