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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

下妻城(しもつまじょう) 茨城県下妻市本城町  2017.1.5 訪問お知らせ

 〜 築城主:多賀谷氏家 築城年:寛正2年(1461) 主な城主:多賀谷氏、松平氏 廃城年:1619年 主な遺構:土塁 下妻市指定史跡 別名 多賀谷城 〜
多賀谷氏は、初代氏家が現在多賀谷城跡公園一郭に本丸を構え、隣接の豪族を攻めてその勢力下に置くほか小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど七代にわたり147年間下妻城主として常総地方に栄えていた。慶長5年関ケ原の戦が起き七代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。この戦いで家康に憎まれ石田三成にくみした理由で慶長6年(1601)2月城主追放城破却となり当地を去った。城主追放のとき奥方はじめ姫奥女中達は行く末を案じて、ある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。領民はこれを哀れみ遺体を集め三の丸の一画に合葬した。それが今に伝えられる美女塚である。現在本丸跡にある多賀谷氏遺跡碑は旧主をしたう家臣子孫が明治23年12月に建立したのである。(下妻市教育委員会が多賀谷城跡公園に建立した案内板、「市指定文化財 史跡多賀谷城本丸跡(旧名下妻城)より)
 下妻駅(右の写真)前にあった案内図より…多賀谷城跡公園→城山稲荷神社→多宝院の順で回った。その場所を、地図上に、朱・オレンジ色で囲んだ。一番左の線路わきのオレンジ色の枠は、何ら情報は持ってなかったが地元の人から土塁・堀らしいところがあると聞き行ってみた。従い、そこが下妻城の関連遺構かどうかは不明。 
     
 下妻駅の自由通路の東端から見た筑波山…
 
 多賀谷城跡公園…右の写真は公園を少し離れた場所から見たもの。全くの公園で児童向けの遊具があった。左の写真とその下は、「多賀谷城跡公園」と記された入口の門と「明治百年記念 多賀谷城址公園」の碑
    
 公園内の一角の少し高くなった土壇のような場所に、この碑があ。多賀谷氏の顕彰碑らしい。ここが本丸跡とのことだが、全く多賀谷城の遺構との雰囲気はない。昭和50年代の市役所移転等の再開発で遺構の殆どが消滅した模様…右の写真は土壇の下部の階段のところ。多賀谷城本丸跡の標示柱があった。右下の写真はこの顕彰碑の近接撮影。
        
 
城山稲荷神社の入り口部分…奥に右の写真の土塁が見える 一部残っている土塁の上に上がってみた。高さ(3-4m)も幅(上部で約1.5-2.0m)も凄い。これが下妻城の遺構かどうか定かではないが、往時はこの辺まで城域であったはずであり、下妻城の土塁の残存と思いたい。
    
城山稲荷神社そのものはさほど規模の大きいものではないが雰囲気はありますね
 多賀谷氏の菩提寺である多宝院(入口は右の写真)を訪ね、裏側(右下の写真)の土塁を見た…雑草・竹林が生い茂っているが、この土塁も規模的には立派なものである。
多宝院の裏手で、道路を挟んで土塁が見える…小高い山になっている
上の土塁の裏側に回ってみる…下妻警察署(左の写真)を左に見て、右側に回り込んで土塁の裏側を見る(右の写真)   土塁の上に上がって見たが、社等もなく何ら遺構の手掛かりが見つからず…
     
多宝院から西方に少し歩き、関東鉄道の踏切を越えるとすぐ左に、土塁らしき雰囲気の雑木林が見えて来た(左の写真)…踏切を越えて裏側に回り込むと、この辺一角だけ残った土塁(堀)のように思える
裏側に行くと、堀のように見えるところがあった…
写真では十分に表現できないが、堀が続いていた…右2枚の写真は近づいてアップにしたものだが、少しゴミ捨て場的になっており残念である。少し樹木を伐採とか、発掘調査でもやってもらえればもっとわかるのではないだろうか?
 
 
 アクセス:関東鉄道常総線「下妻」駅下車徒歩5分〜20分
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