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下斉田城 群馬県高崎市下斉田町 2017.7.2 訪問お知らせ

 〜 築城主:田口氏 築城年:戦国時代? 主な城主:田口氏 廃城年:幕末期? 主な遺構:土塁・水堀 〜
下斉田町周辺は、昭和の初めまでに11か所の環濠が認められていました。この下斉田城も環濠屋敷跡、と思われるが、周りを囲む水堀は、公道の拡幅のため、あるいは側溝の工事のために狭められたとの記録がある。平成8年の東面の整備作業の結果、その深さは公道面から1.7m〜1.8mほどであった。また、堀の底の中央が溝のようになっていて、その溝をV字に上に延長すると薬研堀がイメージできる。そして、昭和50年半ばまでは東面の堀の外側幅2mほどは土塁になっており、南から来る道とぶつかっていた。…以上は、田口一之氏が纏められた「下斉田町の環濠について」より、抜粋・引用させていただいた。感謝。
 JR倉賀野駅から、旧中山道・例幣使街道を経て 高崎線 倉賀野駅から、群馬の森を過ぎて、群馬の森の北側のR354を東に進み、井野川を超えて、八幡原町の交差点に出る。そこから北方向へ曲がるとすぐ下の写真の場所に出る。冒頭の説明のように堀幅も狭められているが、立派な環濠屋敷跡だ。今も田口氏の子孫の方が住み、開発・宅地化の波の中、戦国時代〜江戸時代の貴重な遺構を保存・保全していただいている…
     
個人のお宅なので、内部は入り口から少しだけ撮影させていただいた…土塁や樹齢の古い巨木もあるようだ
 
 正面の通路を南に戻り、今度は西方向へ環濠に沿って歩く…右の写真は西に行き振り返り見たところ。左の写真は居館の西南の角の石垣部分。当時のものと一部改修したものがあるようだ。
     
 上の写真の部分(南側水堀)を南東の角から見たところ…こちらは雑草が生い茂っている
 
R354 沿いにある観音堂とその横の十一面観音の残存部分(真ん中の写真)。観音堂の裏は墓地になっており、多くの田口名義の墓が見られた…ここはもともと田口家の墓地だった由(右端の写真)
      
 R354を超えて南下すると、往時の環濠、長屋門が見られた。もちろん、本来はいわゆる「環濠」になっていただろうし、堀幅ももっとあったと思われる…この長屋門も近世のものだろうし、環濠そのものも改修されていることはわかる。
この辺は、現状では畑地のようだが、往時は掘割があった場所とのこと…地元の人にしかわかりませんね こちらの長屋門は江戸時代(後期)のものか?それなりの雰囲気はありますね…
この屋敷跡の一角に、看護師養成の専門学校が最近できたようで、その学校敷地内にも旧居館跡の遺構が見られる…
専門学校の駐車場の一角に残る環濠の名残…右の2枚の写真のフェンスのすぐ向こうも環濠の跡とのこと…
 
 
 滝の慈眼寺…高野山真言宗華敷山(けふざん)補陀落印慈眼寺。奈良東大寺初代別当良弁僧正(689-773)によって開創されたといわれている、等々の説明版(左の写真)。右の写真が本堂。 
     
山門入り口に「群馬県指定史跡 江原源左衛門重久の墓」の石碑…
 
 慈眼寺の墓地内に、「江原家の墓」…右上の写真がその石碑。右下の写真は群馬県教育委員会・高崎市教育委員会が設置の案内板  
     
 
史跡 観音山古墳…古墳時代後期の前方後円墳。石室は、後円部に築かれた横穴式石室で南西に開口する。  
     
 文化庁・群馬県教育委員会が設置の案内板…
 
 アクセス:JR高崎線高崎駅 或いは新町駅からコミュニティーバスがある…

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