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よしおば30

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全国城めぐりネット

新発田城 新潟県新発田市大手町6丁目 2013.8.29 訪問 お知らせ

 ~ 築城者 不明(主な改修者は溝口秀勝)築城年 不明 主な城主 溝口氏 廃城年 1873年(明治6年) 遺構 櫓、長屋、門、石垣、土塁、堀 指定文化財 国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓) 再建造物 三階櫓、辰巳櫓 日本100名城(31番)に選定 ~
 
新発田城は、慶長3年(1598)に越後蒲原郡6万石(のちに、5万石、10万石となる)の領主として加賀大聖寺から移封された溝口秀勝が、上杉景勝と戦い落城した新発田重家の城跡をとり入れて築いたもので、版籍奉還まで約270年間、外様大名溝口氏の居城となってきた。平地に造られた城で、構えは本丸を二の丸が取り囲み、南に三の丸をつき出し、その南東端に大手門を開いた南北に長いひょうたん状をなしており、南西部一帯に城下町が造られている。本丸は藩主、二の丸の南半分と三の丸は家老など上級藩士の居住地であり中級以下はこれらをとりまいて住んでいた。一名菖蒲城(あやめじょう)、舟形城、狐の尾引城などとも呼ばれ、江戸末期には事実上の天守閣である三階櫓や大手門をはじめとして櫓が11、主な門が5棟あったが、明治初年に新政府の命令で取り壊され、堀も次々と埋めたてられて、今は表門、旧二の丸隅櫓、本丸の石垣と堀の南半分、土橋門跡土塁を残すのみである。(新発田市教育委員会が現地に設置の説明板より抜粋・編集)
新潟駅から北東へ約27㌔、羽越線あるいは白新線で、約25~35分で新発田駅に到着 途中の田園風景、青い空を見ながらのんびりローカル線の旅もいいですね!  新発田駅に到着
…”きらきらスポット”らしい!?
     
 新発田駅、青空に映えて雰囲気出てる! 新発田駅構内に観光案内所があり、そこでいろいろ教えてもらい、パンフ・地図類もいただいた!感謝!
     
 同じく、商店街に入って振り返り写真撮影!
 
あちこちに看板・標識があるので助かります!  商店街を歩く歩く…結構営業している商店が多い!青い空と白い雲!空が広いのがいいね!
 
 とことこ歩いて、現在のお城の入口に着いた…ここがいわゆる土橋門で復元工事が始まるのかな?道の両脇に土塁があり(右の写真2枚)、ここに門があったとのこと。現地の案内板によると、「この門は、二の丸から土橋を渡った帯曲輪の手前(土塁間の道路)に配置された門で、形式は薬医門。土橋門・土橋の手前は御下馬と呼ばれており、騎馬の侍はここで馬を下りて歩いて登城しました…」などなどの説明が
   
 
旧二の丸隅櫓 二の丸の北部にあったが、昭和の解体修理で本丸の鉄砲櫓があった場所に移築されたため、旧二の丸隅櫓という名称になった。この隅櫓は表門と共に新潟県内で唯一、江戸時代から現存する城郭建造物で、国の重要文化財に指定されている。上の写真の土橋門手前および土塁上から撮影した。 旧二の丸隅櫓を見て表門方向に進む…石垣が残る。全て切込みハギのきれいな石垣
     
 右奥に表門が見える  途中にこんな看板が!そうなんだ!  表門を左に見て歩く…
 表門入口、重要文化財新発田城表門・二の丸隅櫓との石碑があった  表門ー2階建ての櫓門で、2階の正面に「石落し」がある。創建時期は明らかではないが、1668年の大火の後の、享保17年(1732)に再建されたと伝えられている。
   
ここいらでお城の縄張り図を見てください。現在は本丸の一部、堀の一部しか残ってませんが、当時の城構えがうかがえると思います。近くを流れる新発田川の流れを利用した平城であった。城郭跡の大部分は陸軍が、戦後は自衛隊が駐屯しており、3階櫓も自衛隊の敷地内であり残念ながら近づけない、入れない!!!…近年では戦国自衛隊の城という愛称で呼ばれているらしい!なお、説明にある「清水園に移築現存」については別掲「清水園」のページをご参照!
  
表門への橋の上から左側を臨む…左の方に土橋門跡の土塁が見える! 表門への橋上から右側堀を見る…切込みハギの石垣、また角の部分はきれいな算木積みが見える。寛文9年(1669)5月の大地震で石垣の大半が崩れたことから石垣の積み直しが行われ従来の乱積みから切込みハギへ! 新発田藩初代藩主溝口秀勝氏銅像 秀勝は尾張国中島郡溝口村の出身で慶長3年豊臣秀吉の命二より6万石を与えられ加賀国大聖寺から新発田に入封した。慶長5年の関ヶ原の戦いでは徳川方についた外様大名であった。
ここから辰巳櫓へ上がる…この階段はもちろん現代のもの 辰巳櫓入口 平成10年、秀勝入封後400年記念事業を契機に三階櫓復元の機運が高まり、平成11年度から三階櫓と辰巳櫓の復元事業が行われ平成16年6月に完成した 辰巳櫓内部 復元に当り発掘調査をした結果、土台石の列が検出された。その内側には、直径1mほどの川原石の礎石が11個検出され、2回まで続く通し柱がのっていたと考えられるとの説明。
辰巳櫓横の土塁上から表門への橋を見下ろす  辰巳櫓右の階段を上がり土塁上へ…この土塁上を歩いて隅櫓方向へ  表門への案内表示 この土塁上を歩く
     
復元予想図ー土橋門から本丸を臨む  本丸の上部(北側)を占める陸上自衛隊駐屯地を塀越しに撮影…車両が見える 
     
土塁上から堀、旧土橋門方向を見る
 
旧二の丸隅櫓 腰壁は瓦張り、白と黒が美しい海鼠壁で仕上げられている 隅櫓下から塀越しに自衛隊敷地内の
三階櫓を見ようとしたが・・・
     
旧二の丸炭櫓内部
   
隅櫓から旧土橋門・土塁を見る 隅櫓を降りてすぐ右側の土塁・・・この右側に堀 右側の土類から表門方向へ戻る通路
   
新発田城の特徴として以下の4点が挙げられていました  改めて塀越しに三階櫓を見ようと試みた・・・ 
       
左端にちらっと三階櫓が見える?
     
三階櫓をいくつか・・真ん中の写真左がが陸上自衛隊駐屯地  
     
木造の三曹三階、入母屋造り、本瓦葺きの櫓 平成6年6月に復元した 新発田城の特徴である三匹の鯱 
      
三階櫓を望む場所に新発田城の石碑
 
この場所に新発田城「菅原問」があった。三の丸北西角に位置し「鍛冶口門」という。・・・との説明板   この場所(新潟日報社の前?)に新発田城「大手櫓」があった 「三の丸南側に位置する2階建ての櫓で新発田城の正面入り口に当たる大手門を守る重要な櫓であった」との説明板 新発田城大手中の門跡から新発田状本丸方向を見る。二の丸南側部分の空き地で次の写真の看板が建てられている
   
新発田城を愛す会が作成の看板の一部に「二の丸南側復元予想図」  遠くに見える白い建物は「老人ホーム」(旧土橋門のすぐ右側)の建物 それ以外は広大な空き地?
   
 この場所に新発田城「三の丸土塁」がありました、との案内板…右側の写真が土塁の名残。土塁の名残が確認できるのはここだけとの説明が  説明版に、「奥の側溝はお濠の名残です」とあるが、コンクリート製でとても名残には見えない… 
   
 新発田駅に戻る途中の寺町エリアに入る  曹洞宗宝光寺 新発田藩主溝口家の菩提寺として400年の法燈を伝える下越の名刹である。溝口秀勝候の新発田移封に従って来たが、慶長17年(1611)頃、現在地に建立された。 新発田市指定有形文化財有形文化財「宝光寺山門一棟」この山門は弘化2年(1845)11代藩主直溥(なおひろ)等の助力により復興したもの。 
   
 福勝寺 応永元年(1394)の創建で、開基は戦国乱世の時代当地に城を構え、上杉謙信旗下の武将として勇名をはせた佐々木(新発田)因幡守重家で、三門脇に開基堂、本堂横に墓所がある。重家は謙信亡き後、上杉景勝と仲を分かち天正9年(1581)戦となり、天正15年10月新発田城落城と共に討死す。(新発田市観光協会設置の案内板より)  
 福勝寺内部  新発田重家候銅像 新発田重家候廟
   
アクセス:JR上越新幹線「新潟」駅より白新線・羽越線にて北東へ27㌔、約25~35分で新発田駅に到着。新発田駅からは徒歩約20分
 ※「新発田城ー新潟県新発田市」をYouTubeにアップしました。こちらからYou Tube のページにジャンプして、ご覧ください。  国指定名勝 旧新発田藩下屋敷大名庭園「清水園」…別ページで掲載しています!下のパンフをクリックしてジャンプしてく ださい!  
 

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