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年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

相模 丸山城 神奈川県伊勢原市下糟屋  2016.10.22 訪問お知らせ

 ~ 築城者 扇谷上杉氏 築城年 室町時代? 主な城主 糟屋氏 廃城年 ? 遺構 郭、土塁 現況 丸山城址公園~
  丸山城址は下糟屋の丘陵上にある平城で、伝承や文献が少ない中世の城郭です。江戸時代末の天保12年(1841)に成立した「新編相模国武蔵風土記」には、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した糟屋左衛門尉有季(かすやさえもんじょうありすえ)の居跡として、「西北の方にて、八幡境内(現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間、南北百十余間、其辺を殿ノ窪(とののくぼ)と字せり、四面に堀の遺形あり、(中略)按ずるに、此地有季の居館とのみ云う」と記されています。

 明治時代になって、字名の殿ノ窪が丸山と変更されると、明治20年に書かれた「下糟屋村外六ヶ村地誌」の中に、初めて丸山城という名前が登場します。昭和8年に刊行された「延喜式内社 高部屋神社小詩」では、糟屋有季歴代の居跡としながら、「千鳥ヶ城跡」という別名が出ています。また、昭和28年刊行の「神奈川県中部勢詩」では、糟屋氏歴代の居城とし、糟屋庄の政所との説が述べられています。糟屋庄とは、平安時代末の久寿元年(1154)に京都市伏見区にある安楽寿院の荘園として認められたもので、現在の伊勢原市から平塚市にかけての広い範囲だったといわれています。…(中略)…

 公園の整備に先立ち城郭遺構の配置等を確認するために、市教育委員会が平成18~20年度にかけて確認調査を実施しました。また公園整備で影響が生じる部分については本格発掘調査を実施しました。これらの調査の結果、公園用地の上段には土塁がまわっていることが確認され、建物址や炉址などもみつかりました。また下段では堀が確認され、西側・東側は幅約16m、深さ5m以上、北側は幅6~9m、深さ2~3mの規模であることがわかりました。西側・東側の堀は底面に段差を持っており、仕切り(障子)状の施設も確認されました。北側ではL字形に曲がった道状遺構が確認され、丸山城の入口施設(虎口)と考えられます。…(中略)…公園整備及び公園地周辺の土地区画整理や民間開発などに伴う本発掘調査から、丸山城址の中心部分は、高部屋神社を中核に、西は東海大学病院のある上ノ台地区、東は普済寺あたりの、東西約1km、南北約400mの丘陵上と考えられます。また、普済寺の北東側には竪穴状遺構や建物址が確認されていることから、外周部分にも関連する城郭遺構が広がっていると考えられます。丸山城址公園での部分的な調査では、堀や土塁、建物址などの城郭遺構が存在することが確認されました。これらの遺構は、公園の地面の下に保存されています。(伊勢原市・伊勢原市教育委員会が平成22年3月に現地に設置した案内板より)
伊勢原駅前の案内板より下糟屋付近をトリミング…伊勢原駅より北方へ歩き、市役所のところを右折して、国道246号線に入り東方向へ行くと、右手に高部屋神社の看板が見えてくる(左上の写真参照)。丸山城址公園は246の左(北)側に、丸山城址公園の案内板(左下の写真)が見えてくる。 
     
 
城址公園の下の段にあった案内板より「丸山城とその周辺の地形図」部分をトリミング…青字で囲んだ部分が丸山城の範囲だと考えられる由。
    
 多目的広場の西端部分の土塁…この土塁の左(南)端は削られているが、かつてはそのまま南西方向に延びていたと思われる。国道246の下糟屋の交差点付近でL字形に曲がっていて「横矢掛り」となっている。(案内板より抜粋)  城址公園の上段の多目的広場と説明表示のあるところ…遠くに見える白い建物は「東海大学附属病院」
     
左の場所から少し左の場所…
 
下段の案内板の遺構想定図部分をトリミング…発掘調査で確認確認の堀の他に、土塁と堀の推定ラインが表記されているので、参照して下さい。  
 
 多目的広場東側の下段に降りる…土塁の残存部分だろう(左上の写真も)。この下に堀の推定部がぐるりと廓を囲んでいる(上の写真参照)
        
土塁下の案内板…
 
下段の説明板(右上の写真)に「虎口として考えられる道状遺構」の説明が。
左の写真は、北側の住宅街方向へ降りる階段。
  
 国道246…右側に高部屋神社の案内看板が見える
 
下段をぐるりと左に回り、幼児のあそび場付近から上段に上がる(右の写真の階段より)。左の写真は下段の幼児のあそび場の手前の土塁。上段に上がり、改めて土塁を見る(右下の写真)…   
     
 
 
 246号を跨ぐ通路(橋)…この先の高部屋神社へ向かう 左側に高部屋神社…この手前に推定された堀のラインがある    
        
上の写真の橋の上から
高部屋神社方向を見る…
 
  城址公園から246号線を跨ぐ橋を通り、対岸の高部屋神社へ来た。由緒ある神社らしいが城址の遺構らしいものは何も見当たらない…  246号線を挟んで対岸の丸山城址公園を見る…
     
 神社境内を南方へ歩く…
 
創建年代は不詳だが紀元前660年とも言われている。当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた。室町時代に入ると足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われる。天正19年(1551年)に、徳川家康から社領十石を寄進され朱印状を頂いた(現地に設置の案内板下の案内板「延喜式内 高部屋神社」より抜粋… 
     
高部屋神社本殿…
 
太田道灌の墓…道灌の墓は、市内ではこの下糟屋の大慈寺と、道灌の遺体を荼毘に付したと伝えられる上糟屋の洞昌院にある 丸山城址から南方向へ少し歩くと「太田道灌公霊地」の看板が…
     
左の墓所に若干近づいた…
 
大慈寺は、覚智が鎌倉に開山し、太田道灌が中興開基となり、親戚の周巌を中興開山として、当地へ移転して再建したと伝えられている。ここには、太田道灌ゆかりの文化財が多数所蔵されている由…
   
アクセス:小田急小田原線「伊勢原」駅より徒歩約20-30分。
※「相模 丸山城」ー神奈川県伊勢原市 ーYouTubeにアップしました。こちらからご覧ください。

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