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 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城
  於曾屋敷 山梨県塩山市下於曽元旗坂 2021.12.22 訪問
 〜 築城者 不明(加賀美光経?) 築城年 不明(15世紀中ごろ?)遺構 堀切、土塁、〜その他 県史跡
塩山市下於曾元旗板に所在する。四囲は土手を二重に巡らせ、門は南・西に開いている。現在、東西96m、南北約120m、山梨県内の中世豪族屋敷として唯一完備したものである。土塁基底幅は10.6m、高さ3mの豪壮な土塁を囲続し、小字名「はたいた」とあるところから、土塁上に更に板塀を巡らせた防御設備があったと考えられる。「於曽」の起こりは平安中期の「和名抄」に記載がみえ、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族であった。その後甲斐源氏加賀美遠光の四男・五男がこの地を支配し於曽氏を称した。
この於曽屋敷は加賀美遠光の四男光経、更にその子遠経の屋敷と伝えられ鎌倉初期創立である。後に於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族である板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍した。また、この屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、また金製法の作業場があったことから、当屋敷はそれら金山関係者の役宅とも考えられる。
更に今日於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致する。昭和60年、山梨県埋蔵文化財センターが外土塁内作場を調査したとこ門の位置が現在より東に12m寄り、その前に土橋・柵列があったことが確認された。(塩山市教育委員会が、平成2年2月現地に設置の案内板「史跡 於曽屋敷(昭和38年9月9日県指定より
 JR中央線「塩山」駅南口から約300mの位置にある。  上記の説明版に付属の「図説山梨県の歴史」より抜粋。
   
塩山駅が見える…手前右側に食堂や土産物店などがある。尚、ネット情報では駅にコンビニがあるとのことだったが実際はなかった。  駅から約300mのところに位置するとの案内だったが、案内表示がないばかりか駅前の地図にも表示されていなかった…於曽屋敷跡が現在は一部公園になっており(於曽公園)、その公園の入り口のところにあった案内板。
      
 公園に入る手間にあった「下於曽のモミ」市指定天然記念物、との表示が… 左の写真の「下於曽のモミ」を左に見て進み公園の入口へ…振り返ると「モミの木」が見える。  入口のところに「於曽公園 塩山市」との表示中…どこにも「於曽氏屋敷跡」との表示がない
     
北側の土塁跡に上がる…境界部分の西側の住宅が見える。遠くに先ほどのモミの木が見える。  於曾公園入口(表示柱のところ)から入り、金網で仕切られた屋敷敷地方向を見る…市に提供して公園となっている部分ではなく。  土塁上に上がる…きれいに整備されている。土塁上部の幅は2-3m程か?
 下於曽のモミ(塩山駅方向)が遠くに見える。そこから南方の土塁の方向に向かう…  南端の方向に向かう。南端にきて右に曲がり下の写真のところへ行く…
       
 現状では土塁のすぐ下に住宅がある。図面によるとこの場所の土塁は2重になってたようだ…一番右の写真で少し伺えるがそこは堀になっていたと思われる。もっと幅広で一応敵の侵入を阻止する目的であっただろう
 この公園部分の東側に現存する門とそこの入り口部分に残る石垣(右の写真)。この門と石垣部分はそこそこ古いが、決して15世紀中ごろのものではなさそう。石垣に使用の石がきれいに揃えられていることやその積方から見ても、もっと後世のものだろう。右下の写真は当屋敷の住人が記した案内板であるが、残念ながら判読困難な部分がある。
     
当屋敷の住人(於曽氏につながる家系?)が作成・設置の案内板…一部判読困難なのは残念
 
 公園部分から、南方に行き屋敷敷地部分の端に出た。ここから東方向へぐるりと敷地に沿って歩く… 左の写真の東端に行きそこから、北方へ曲がって上がる。白い杭のところが屋敷地側の境界線。屋敷地側(西側)を見ると、土塁のような状態が続く…
     
 上の写真の真ん中部分をまっすぐ上がるとこの道路に出る…西方向へ少し歩くと当初来た「於曽公園」との標示柱のところに戻った。  再び、於曾公園内部に入り、金網フェンスに沿って南方へ歩く…そこに「於曽氏を祀る社」を見つけた。 公園の西側部分の土塁を再び歩いて、南端に行く… 
 於曽家の家臣、板垣権兵衛の腹切り石…右の写真で拡大したもので「板垣…」とは読める。そもそもの謂れは不詳 塩山駅に戻る…駅前の食堂で「ほうとう」を食べて帰途に就いた