よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりのページ

地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

忍城 埼玉県行田市本丸  1st 2014.5.27  2nd 2016.6.15 訪問お知らせ

 〜 築城者 成田顕泰(なりたあきやす)築城年 1478年頃 主な城主 成田氏、松平氏  廃城年 1871年(明治4年) 遺構 土塁、堀、移築門 指定文化財 なし 再建造物 模擬、櫓 関東7名城 〜
忍城は文明10年(1478)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された。守り易く攻めにくい難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田光成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋が入城し忍城大改修に着手 孫の正武の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた。行田市では維新後取り壊されていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった。(平成3年3月に、行田市が現地に設置した案内板「忍城の由来」より)
忍城今昔地図 水城公園に行く途中にあった案内板より。行田市駅から南へ少し歩いて、高札場〜枡形城門〜水城公園〜三階櫓跡を経て、本丸方向へ。最初に、諏訪曲輪に行き、その後、模擬三階櫓(行田市郷土博物館)へ。
 
秩父鉄道行田市駅 高札場跡を過ぎて、更に数分歩くと、「枡形城門」の碑が…ヤクルト埼北処理工場との標示の門が出てきた。駐車場になっているようだ。
     
 行田市駅から南下して、武蔵野銀行行田支店のところにある「高札場跡」の碑 
 
 桝形城門を入り右側を見ると当時の堀跡かと思われる通りがあった…  駐車場の端のところで、そこを出て右を見ると、駐車場の案内板が…ここも当時の堀跡か
     
 上の写真の真ん中のところに、この「大手御門跡」の碑が…  大手御門を出て、左(南)方向へ行くと、現在の水城公園へ。ここは当時から水堀・池であった
     
三重櫓跡の碑…最初の地図の下の方、水城公園近くにあった。現状ではこの石碑があるのみで、現在民家が建っている辺りまで櫓があったのか
 
 松平忠堯候・忠国候 隠居所跡の碑…  本丸方向へ近づいていく… 本丸への道が観光用に整備されている…冠木門や案内板など 
     
 この道をまっすぐ進むと御三階櫓 模擬御三階櫓1874年に取り壊されたものを1988年に再建した。
  
 水堀・木橋越しに御三階櫓を見る
 
 櫓の横の土塀…一応、矢狭間、鉄砲狭間を擬した開口部が見える 木橋 その先に門が(もちろん模擬) 郷土博物館の反対側(国道125号線を挟み)にある、諏訪神社・東照宮の標示 
  国道125号線に面した諏訪社の門柱  諏訪社の鳥居・社殿…  松平忠堯は桑名から移封するに当たり、東照宮をこの地に勧請した。明治6年、城郭取り壊しの際に当地に移された。
     
 神社の裏手の湿地・水堀部分…数少ない遺構の一つ。右の写真は、諏訪社内に残る土塁の一部 
     
 諏訪曲輪御門跡の碑…
 
木橋を渡ったところに城址碑が… 城址碑横の門  門をくぐり庭へ(右が博物館入口)
 鐘楼(桑名から持ち込んだ鐘自体は博物館内に安置されている)  博物館の周りの庭…右の写真は庭から見た御三階櫓
 伝進修館表門 藩校・進修館の表門だったと伝わるもの。天保三年(1832)に建造されたものという事が判明している。
 数少ない遺構のひとつの「本丸土塁」
 城内にあった櫓に使用されていた石垣(元禄15年には三階櫓一棟、二階櫓二棟が建てられたが明治6年の廃城により解体された。 移築現存の高麗門形式の城門…どこの門であったかは不明
 博物館内に展示の「名所案内図」…当時の8つの守り口(推定)のうちから、大手口、の大手御門跡、升形城門跡を訪ねるとともに、途中で清善寺、行田八幡神社なども寄ってみました。その後、さきたま古墳群にある石田堤跡、天祥寺に行きさきたま古墳公園も散策して帰途につきました。レンタサイクルのお陰で効率よく回れました。
城主の娘の「甲斐姫」についての説明版を市内の道路で見つけた…実在していなかったとの説がある。 行田八幡神社…源頼義・義家が奥州討伐のためこの地に滞在した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられている。成田長泰公は社殿を修補して城下総鎮守とした。このことから「城主八幡」または社殿の向きから「西向き八幡」の名が。
 清善寺本殿 清善寺 当寺は当地の豪族成田顕忠(あきただ)の草創と言われている。顕忠は、1519年に没したが時の15代城主成田親泰はその死を悼み、一寺を建立し平田山清善寺と称した。
丸墓山古墳へ上がる階段   丸墓山古墳と石田光成についての説明。石田光成が忍城攻めの際に陣を張った。 
 
忍城の方角が示されているが、次の行の真ん中の写真がそれにあたる。 
 
丸墓山古墳の山頂の全景…   石田堤の残骸…実際はもっと高く延々と続いていただろう
…右の説明板を参照
 
     
天祥寺 松平初代忠明公は天祥寺開基であり、9代忠堯公は桑名より移封、天祥寺を今の埼玉に建立…説明板参照   
     
石田堤 埼玉古墳公園から南方へ、国道17号熊谷バイパスを超えて忍川を超えたところに、上越新幹線をまたぐ形で石田堤史跡公園があるが、その公園の手前に約1kmぐらいか、石田堤が続いている。こちらも実際の堤の規模ではないが、想像のつばさを広げて往時の規模を思い浮かべていただければ…。
     
 上越新幹線の高架下部分から、北方にかけて残る石田堤…今回の再訪で、更に整備されているのがわかった。 
 
 石田堤史跡公園の石碑…
 
 展望台から、上越新幹線高架下の各種案内施設を見下ろす…  石田堤碑…この後ろには各種説明板を備えた公園的なものができていた。 
     
 展望施設より、石田堤の上部を見下ろす…
 
アクセス
JR高崎線吹上駅から、行田市駅・行田折り返し場行きバス(前谷経由)忍城下車すぐ
 行田折り返し場・総合教育センター・工業団地行バス(佐間経由)新町1丁目下車徒歩10分
JR高崎線行田駅から、市内循環バス西循環コース(右回り)忍城址・郷土博物館前下車すぐ
 市内循環バス西循環コース(左回り)行田市バスターミナル下車徒歩5分
※「忍城ー埼玉県行田市」を
YouTubeにアップしました。
こちらからYou Tube のページにジャンプしてご覧下さい!
                  

ギャラリー



ナビゲーション