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地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

上野 女淵城(おなぶちじょう) 群馬県前橋市粕川町女淵  2017.6.6 訪問 2017.9.8 再訪お知らせ

 〜 築城主:不明 築城年:不明(戦国時代) 主な城主:沼田景義、新居長重 廃城年:天正18年(1590) 主な遺構:郭、土塁、水堀 
女淵城は戦国時代に赤木山南麓にあった城のひとつ、要害に広く水濠を用いた平城である。女淵城は、いつ、だれが城を築いたか詳しくわかっていないが、戦国時代から歴史上に出てくる。赤城三南麓地方の他の城と同じように、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、小田原の北条氏などの戦国大名の侵攻を受け、城主の変遷が多かった。城跡は東西200m、南北450mの広い地域をを占めている。主要部は南北320m、最大幅90mの水濠の東側にあり、低い土居と堀をめぐらして、北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸(御霊曲輪)、竜光寺曲輪が並んでいる。北曲輪と本丸の東に帯曲輪がある。本丸は東西40m、南北30mあり、広くて深い水濠で囲まれている。本丸に接する帯曲輪、北曲輪、二の丸にはそれぞれ土橋で通じている。西曲輪は本丸の西側の広い水濠をへだってあり、堀をめぐらしている。その先に外濠があった。城の東側は河川が自然の水濠となっていた。天正18年(1590)小田原の北条方の城だったので、豊臣秀吉方の軍勢に攻められ、小田原城落城と同じく、落城し廃城となった。(前橋市文化財保護課が現地に設置の案内板「女淵城跡」より)
地域用水環境整備事業として整備され、おなぶち城址公園として市民の憩いの場にもなっているようだ。この案内板より縄張り図(?)部分を抜粋・引用させていただきました。案内板(現在地のところ)のところから入り、曲輪橋の下に行き「西宿沼」を見てから再び案内板に戻り、西宿橋から御霊神社方向へ回った。…  上毛鉄道「新谷(あらや)」駅…単線、ワンマン運転
    
 北側の曲輪…左の図面の案内板のところの入り口部分に行く手前の、左側の曲輪内部
 
 上の地図の、曲輪橋の下に降りる通路があり、そこに降りて左(北)側の堀を見たもの…この先は上毛鉄道の方向  こちらは、右(南)側の堀を見たもの…水堀は当時の雰囲気を漂わせてはいるが、石垣はきれいに復元されていて、きれいな護岸工事と言えよう 
     
 ここは北側の曲輪の北端部分か?
 
 案内板のところから外に出て、堀に沿って本丸方向へ歩く…「折」、「横矢」掛かりの場所を過ぎて、右方向へ、右上の写真の橋が見えてくる  塁上から眼科の郭を見下ろす…
     
左の写真の土塁上の道を西に進む…
 
右の写真の門へ続く通路から北側の堀を見て右の城址碑・門のあるところに行く…門は閉ざされていては入れなかった
     
「史跡 女淵城跡」の石碑…
 
 西宿沼を見渡す…かなり広い幅の水堀だ  上の写真の門から、水堀をまたぐ橋に来て、橋上から右(西)側の水路的なところを見る…
     
 水堀の端の「本丸橋」の先に本丸跡が…  本丸橋上から水堀を改めて見る
  
 本丸跡の標示柱…
 
 右の写真の本丸跡の標示柱と説明板の隣の畑… 
     
 北曲輪 茶ノ木邸(?)と読める…
 
旧三の丸(御霊曲輪)…そこかしこに土塁の残存がみられる。ここで上演される神楽は「前橋市指定重要無形民族文化財」に指定されている
  
 これも残存土塁の一部…
 
 神社入り口の一の鳥居と「村社 御霊神社の石碑」…  神社内に残る土塁と空堀の残存?  再び、北曲輪方向へ戻る際にも土塁の残存かと思われる部分…
     
アクセス:上毛鉄道「新谷」駅下車 徒歩約20分
                  

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