よしおば30

Welcome to New Yoshioba30's Homepage

全国城めぐりネット

 地域・都道府県別年代別日本百名城国宝・世界遺産現存天守12名城

岡山城 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1 2013.5.29 訪問お知らせ


 ~ 築城者 上神高直? 築城年 正平年間(1346年ー1369年) 主な城主 宇喜多秀家。小早川秀秋、池田忠雄 廃城年 明治6年(1873年) 遺構 櫓、石垣、堀 その他 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓) 国の史跡 再建造物 天守、門、塀 日本100名城(70番)~ 
 備前の国邑久から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を滅ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落城するに及んで、城普請は一段落した。これがこの地に豪壮極まりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城郭町の骨格が出来上がったのである。宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後、小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以降池田氏31万5千石の時代が続き明治維新に及んだ。(現地案内版より抜粋・編集)
岡山駅から東に約 20分歩くと後楽園の右側に岡山城の天守閣が見えてくる 城域に入り遠くの天守閣を見上げる 本丸の搦手にある城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備える ここが月見櫓の下の石垣
       
小納戸櫓下の石垣 池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた 天守閣に通じる通路
       
廊下門を内側から見る 穴倉 香川県豊島産の切石で造られている。非常用の食料を保存していたのではないかと考えられている 国宝岡山城月見櫓(石碑が右に)
       
数寄方櫓 白壁造りの三階建の櫓表書院の数寄屋(茶室)で使う茶道具が保管されていたのではないかと思われる 泉水 表書院の中庭にあった泉水を復元している 発掘調査で発見された
石垣の実物が展示
       
地中に埋もれていた石垣ー角が尖った珍しい石垣…辺と辺の角度は70度 宇喜多秀家が築いた中段の西辺石垣石垣の高さは10m程だが情報の3m分のみ露出展示している
       
不明門(あかずのもん)表書院から本段(城主居館)へ上がる石段の入口に設けた渡櫓門。平素の出入りは北端の渡り廊下を使用し、この門は殆ど閉ざされていたので、「不明門」と呼ばれた。 門をくぐって天守各方面へ 大納戸櫓 本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓だった
       
岡山城天守閣
          
 
  
背後の高石垣がせり出してきたため、補強の目的で元禄年間(1688~1703)に築かれた。丁寧に面を整えた割石を横積みにしているのが特徴
 
岡山城は宇喜多期野面積み、小早川期は隅が直角になっているなど時代ごとの特徴がみられる
     
 天守台の石垣 宇喜多秀家が1597年までに築いた
石垣で、自然石を用いたいわゆる野面積み
  
 こちらの天守台石垣も野面積であり隙間に挟まれた小石が転落することがありご注意くださいとの表示が 
     
       
岡山城内堀石垣跡 丸の内地区に残る二の丸跡の石垣
     
アクセス:JR岡山駅から歩いても精々20分位か。バスなら、岡山駅から
岡電バス「岡電高屋行き」両備バス「東山経由西大寺行き」
いずれも「県庁前」で下車 或いは、路面電車「東山行」で「城下」下車
※ 「岡山城~岡山県岡山市~日本100名城」をYou Tube に投稿しました 。こちらをクリックして、You Tubeのページにジャンプしてご覧ください!

ギャラリー


ナビゲーション